第五章 妬心




太陽神の結界が解かれるのを待って、沙織と彼女の聖闘士たちはアベルの神殿を再び訪れた。

ひと月前の激闘の跡はもはやどこにも残っておらず、そこは静謐な神の神殿に戻っていた。
もっとも、その荘厳な石の建築物は、氷河の目には不吉な伏魔殿としか映っていなかったが。


「やっと入れてもらえましたね。私の聖闘士を一人、お返しいただいていないのですけれど」
「亡骸を手に入れたところで、どうなるものでもあるまい」

選んだ言葉だけは穏やかだが、口調は厳然とした沙織の要求に、太陽神が悪い冗談で答える。
高座から悠然とアテナと彼女の聖闘士たちを見おろしているアベルに、氷河は目を据わらせた。
その睥睨を、神が横目でちらりと見る。


ここに来て、アベルは迷っていた。
実際に二人を会わせてしまえば、瞬は、“好きでもない”男に身を任せた自分を恥じて、すべてを諦めるものと思っていた。
瞬は確かにそうだろう。
瞬は、“綺麗”でなくなった自分に負い目を感じ、あるいは、瞬を“世界”の生け贄にしてしまったことで負い目を感じさせないために、仲間たちを拒絶するに違いなかった。

しかし、この白鳥座の聖闘士はそれで瞬を諦めるだろうか。
自分がこの男の立場にあったなら決して諦めない──そんな考えるまでもないことに、アベルは遅ればせながらに思い至った。

そして、アベルは自分の企みが、ある種の危険を伴っていることに気付いたのである。
瞬の心を読んだ感触から、瞬の心の中にいる男は非常に臆病な男なのだと、彼は思っていた。
多分そうだったのだろう。
瞬の前でだけ。

瞬の前でだけ臆病な男は、今、ひどく挑戦的で攻撃的な目を神に向けていた。
そんな男を追い詰めた時、彼がどんな行動に出るのか──が、アベルにはわからなかった。
人間の無思慮・無謀など、所詮、神には解し難いものでしかない。


何があっても、無論、瞬を返すつもりはない。
しかし、無謀に神に逆らってきた愚か者を、たとえば殺さざるを得なくなった時──瞬はその殺人者を許すだろうか。

許す──かもしれない。
世界を滅ぼそうとした神にすら同情の念を抱いてみせる瞬ならば。

だが、たとえ、瞬がその行為を許すことがあったとしても、瞬は、その時から、二度と触れ合うことのできない相手を、負い目を感じずに愛しみ続けることが可能になってしまうのだ。
瞬が“汚れた”のは身体だけのことで、その心は依然として罪にも邪にも汚染されていないのだから。


それは、アベルの本意ではなかった。

それでは、ますます瞬の心が遠ざかってしまう──。








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