第六章 過ち




「キグナスが──」

アベルは探りを入れるように、その名を口にした。

それまで、ぼんやりと、出ることの許されていない庭を眺めていた瞬の横顔に、さっと緊張の色が走る。
瞬は、しかし、庭の上に投げていた視線を、どこへも動かさなかった。


数日前、瞬が、一度だけ降りることの許された石の庭は、午後の陽光を受けて、白く輝いている。

以前は、暖かい太陽の陽射しを眺めて悲しい気持ちになることはなかった。
今は、その陽光が暖かくうららかであればあるほど胸が痛み、切ない思いがこみあげてくる。


「ここ数日、この禁域の周囲をうろついているので、どうしようかと考えているんだが」

「……あ」
瞬が、やっと、太陽神の方へと視線を巡らす。

その視線を捉えて、アベルは薄く微笑んだ。
「もちろん、おまえが見逃してくれと言うのなら、そうするが」

太陽神は、神殿の庭園を見渡せる広間の奥まった場所に置かれた長椅子に、古代の饗宴に招かれた哲学者のようにゆったりと寝そべって、瞬を眺めていた。

「…………」
瞬が、光の跳ねている回廊から、戸惑いと怯えの混じった上目使いで太陽神を見詰め、恐る恐る小さく頷く。

「では、見逃してやろう。どうせ、ここまではやって来れないだろうし」

ほっと安堵したように小さな吐息を洩らした瞬を、アベルは自分の側に手招いた。


「ここを出たいか?」
「…………」

「キグナスに会いたいか」
「…………」

瞬は、アベルに問われたことには答えなかった。
「なぜ、そんなことを訊くの。あなたは、人の心が読めるんでしょう。だから、僕と氷河のことも知ってる」

「おまえの声が聞きたいからかな。私は必要な時にしか、人の心を読んだりはしない」
「あなたの耳に心地良いことは喋れません」
「いいから、言ってみなさい」

瞬に対するアベルの態度は、日毎に優しいものになってきていた。
敵だということを考えなければ、甘えることに、これほど躊躇を覚えない存在もないだろう。
彼は強大で、瞬の気持ちを誤りなく把握しており、そして大人だった。
些細なことで傷付いたりすることはないのだと思うことのできる存在だったのだ。


瞬は、だから、“甘えて”しまったのである。
非力な人間のささやかな愚痴や我儘にはびくともしないだろう“大人”に。








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