「なーんか、氷河の奴、小宇宙だけでなく、雰囲気もまるっきり変わっちまったよなー」

何があったのかは聞かされていなかったし、尋ねもしなかったが、アベルの神殿で、氷河を激変させるほどの何かが、彼の上に起きたのだということだけはわかる。

「そっかー。両思いだったんだな、あいつら」

仲間の賛同に謝意を告げて部屋を出ていく氷河を見送ってから、星矢は、氷河が閉じた扉に向かって呟いた。

「なんでそういうことになるんだ」
「それ以外考えられねーじゃん。氷河のあの落ち着きぶり!」

確かに、それは、渇望していたものをついに手に入れた人間のゆとりにも見えた。
だが、肝心の瞬は、まだ敵の手の中にいるのである。
たとえ、瞬の心を確かめることができたのだとしても──否、それならば、なおのこと──以前の氷河なら血気に逸っていたはずだった。

今の氷河は、おそらく、そんな怒りも焦りも通り過ぎてしまったに違いない。
通り過ぎてしまうほどの何かが、アベルの神殿にはあったのだ。

今の氷河は、ただ、最も確実に瞬を救い出す手段と機会だけを、考えている。
今すぐ突入するのだと無鉄砲なことを言い出すこともなく、新月の夜を待つなどと、考えようによっては悠長なことすら言ってのけるほどに、今の氷河は冷静だった。

子供じみた激情や勘気も忘れてしまうほどの何か、氷河をそんなふうに変えてしまうほどの何か──もしかしたら、煮え湯を飲まされるように辛い出来事──を、氷河は経験してきたのかもしれない──と、紫龍は思ったのである。

紫龍たちを氷河に従わせるものは、ここ数日間で異様に強大になった小宇宙などではなく、今の氷河がその心底に秘めている恐ろしく静かな気迫のせいだった。


「一輝が聞いたら、怒髪天を突くぞ。確証がないなら、そんなことは言わないでいた方が長生きでき──」


「俺が何だって?」

紫龍の親切な忠告を遮ったのは、事と次第によっては星矢の長生きを妨げることになるかもしれない、瞬の兄だった。

「一輝!」
思いがけない助っ人の登場に、星矢の瞳が輝く。
「おまえ、どこ行ってたんだよ!」
かけらほどにも自分の寿命の心配などしていないらしい星矢は、太陽神よりも太陽のような男の登場を素直に喜んでいるようだった。

「デルフィだ」
「デルフィ? なんだ、それ、食えるのか?」

それがお約束のボケなのか、真面目な質問なのかの判断に迷いながら、一応、紫龍は星矢への説明を試みた。
「太陽信仰のメッカだ。アベルを封じたアポロンの聖地で、アポロンの神殿がある。──遺跡だがな」

「遺跡? じゃあ、観光地だな。土産出せよ」
そう言って差し出した星矢の手を、一輝が渋い顔をして弾く。
どうやら、いい土産は買えなかったらしい。

「アベルを封じる術があるかと思って、探しに行ってみたんだが──」
「あったのか?」
「奴を封じていたものはあった……が」
「が?」
「粉々に壊されてしまっていた。おそらく、キリスト教が太陽神信仰を凌駕していくのに腹立った神官の仕業だろうが、愚かなことをしたものだ」

「? なんで、ここにキリスト教が出てくんだよ?」
星矢にも、一応、キリスト教の神とギリシャの神々の区別くらいはつく。
中途半端に区別できるせいで、星矢はかえって、一輝の言葉の意味を理解できなかった。

「アベルを封じていたのは十字架なんだ」
「十字架? それって、キリスト教の小道具だろ」
「せめて象徴と言ってくれ」
ぼやく紫龍に、一輝は少々同情したが、ここで彼を慰める義理も義務も一輝は持ち合わせていなかった。

「まあ、そうなんだが、キリスト教はもともと太陽信仰なんだ」
「へ?」
「十字架は、本来は、天体観測の指標だった。太古の新年だった春分の日に、太陽の軌道が黄道を横切る時、光が星座の下方から上方に昇ることで十字が描かれる。キリスト教はギリシャやオリエントの神々の、いわば末の流れと言ったところだな」

「へー。だから、アベルの奴、十字架なんかに封じられてたんだ。全然知らなかったぜ」
「知っていても、無意味だ。結局、無駄足だった」

「つまり、アベルを倒しても、封じることはできないから、いずれ太陽神は蘇るということか」
即座に一輝の報告の深刻さを理解した紫龍が、その眉間に皺を寄せる。

「沈んでも、また昇るのが太陽の仕事だ。仕方あるまい」

一輝は、そう言って皮肉に笑った。
弟のことには、何も触れなかった。








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