「紫龍……! 紫龍、どうしたの?」 心配そうな瞬の声がした。 「あ……? あ…ああ、いや、何でもない……」 瞬の声で我に返った紫龍は、自分が今どこにいるのかを思い出した。 そして、瞬の前で自分が思考を手放していた事実とその理由に気付いて、内心、ひどく当惑したのである。 瞬の手や首筋に気を取られて、耳の方が留守になっていた──のだ。 瞬の言葉より、瞬の姿に意識を奪われて。 そんなことは、紫龍には初めての経験だった。 「急に黙り込んで――まるで、氷河みたい」 昨日までの紫龍なら、瞬のその言葉を、氷河の散漫な注意力を嘆く言葉と受け取っていただろう。 相手の言葉を聞かず、まともな会話を成り立たせようとしない氷河の態度には、紫龍も常々懸念を覚えていた。 氷河の気を散らすものが何なのかを、紫龍は今朝まで知らずにいたから。 自分自身を棚に上げ、紫龍は、氷河の邪念に不快を覚えた。 と、そこに、ラウンジのドアの向こうから、噂の主が姿を現わす。 氷河は氷河で、瞬がまた紫龍と一緒なのが気に入らないらしい。 「一輝ならまだしも、また、紫龍か」 うんざりしたような小声の呟きが、紫龍には聞き取れた。 その呟きが瞬の耳に届く前に、氷河が、いつも通りに馬鹿なことを言い出す。 「瞬。腹が減った」 「え?」 「おまえの焼いたパンケーキが食いたい。クリームとさくらんぼの載ったやつ」 「……もう……」 毎日毎日次元の低い我儘を言われ続けて、さすがの瞬も疲労気味らしい。 「……どうして、氷河は、いつも急に、わざとそんな子供じみた我儘言い出すの」 瞬は、呆れた顔で、でかい図体をした子供を見やると、肩で大きく嘆息した。 「ああ、どうせ俺はガキだからな。どっかの隠居老人みたいに、含蓄のある高尚な話も、侘び寂びまみれの枯れた話もできないさ」 「それ、僕が老人みたいに枯れてるって言ってるの?」 「……おまえは泉だ。際限なく水の湧き出る泉だ」 瞬の過労など気にかけた様子もなく、氷河が、真顔で瞬に告げる。 「だから、誰もが渇きを癒しにくる。俺のものなのに」 「……氷河ってば、何言ってるの」 「──別に」 氷河は、彼から瞬を掠め取っている男にだけ、その嫌味が通じればいい──と思って、そんなことを口にしたものらしい。 紫龍には、もちろん、氷河の言いたいことは明確に伝わっていた。 いつもの彼なら、独占欲を剥き出しにした我儘な子供が、また分別のないことをわめいている──と苦笑していただろう。 だが、今日の紫龍にはそうすることができなかった。 今朝の夢があまりに生々しく、そんな夢を見てしまった自分が、氷河よりも卑しい男に思えたから。 その場にいたたまれなくなって、紫龍は掛けていた椅子から立ち上がった。 それが、案に相違した反応だったらしく、氷河が、意外そうに眉をひそめる。 その不審の表情が、即座に、無言の激昂に変わるのが、紫龍には見てとれた。 普段まともな判断力を有しているのかどうかも怪しい氷河が、瞬に関することでだけは、恐ろしいほどに察しがいい。 自分の不自然な離席の訳を、氷河が正確に邪推しただろうことが、紫龍にはすぐにわかった。 それが下種の勘繰りではないのである。 紫龍は、氷河にではなく自分自身に激しい憤りを覚え、いつになく乱暴な仕草でラウンジのドアを閉じた。 |