ソファの上に、瞬が気怠げに身体を起こすと、氷河は、彼自身が剥ぎ取ったのであろう瞬のシャツを拾いあげ、瞬の肩を覆った。
その仕草は、つい先刻までの傍若無人の記憶を失っているのではないかと思えるほどに柔らかく、まるで弱った病人を世話する看護士──否、生まれたばかりで首の座っていない赤ん坊を扱う母親のように丁重である。

瞬の身仕舞いが終わったのを確認してから、氷河は、廊下に向かって開かれているドアを振り返った。

「紫龍、いるんだろ」

驚きに目をみはった瞬を尻目に、氷河が、ドアの影に潜んでいる仲間に告げる。
「初めは泣いてばかりだった瞬をここまで仕込んだのは、この俺だ。他の奴に渡したりなどしない」

紫龍は、何を、どう答えていいのか──反応していいのか、わからずにいた。
わかるわけがないではないか。
瞬が自分のものだということを思い知らせるためにだったとしても、第三者に自分の恋人の痴態をわざと見せつける男の心理など。

紫龍の無反応が予想通りだったらしく、氷河が口許ににやりと皮肉の色の濃い笑みを刻む。


「氷河、気付いてて……? どうして? どうしてこんなことするの。なんで、そんなこと言うの。いったい何を考えてるの」
「俺が考えてることといったら、いつもおまえのことだけだが」
「氷河……」

切なげに眉根を寄せた瞬の横から立ちあがり、氷河は客間の扉に歩み寄った。
向かいの部屋に通じるドアに寄りかかるようにしてその場に立ち尽くしている紫龍に、侮蔑の混じった視線を投げる。

「『俺はやったのだと、私の記憶は言う。だが、私のプライドは、俺がそんなことをするはずがないと言って、頑としてきかない。結句、記憶が負けて、プライドに譲る』――」

氷河のその言葉は、紫龍の記憶の中にもある言葉だった。
紫龍は、自身の記憶域の探索に、いつもの倍の時間がかかった。
ニーチェだ。

氷河がどういうつもりでそんなことを言っているのかと訝るよりも、紫龍は、氷河がそんなものを知っていることの方に驚いていた。
超人思想を説いた、かの哲学者の辛辣な語り口は、この傲慢な氷河がいかにも好みそうなものではあったが。

「高潔にして、清廉潔白、聖人君子面をした龍星座の聖闘士殿。俺と瞬を見て、感じてたんだろう? ああ、おまえは、自分の男を隠すのに実に都合のいい服を着ているな」

表情らしき表情を作ることもできずにいる紫龍に、氷河は、自身の衣服の乱れを直しながら、わざと下卑た口調で挑むようにそう言ってきた。


「氷河っ! なに、訳のわからないこと言ってるの! どうしてこんなことしたのかちゃんと説明してくれないと、僕、本気で怒るよっ!」

何のために氷河がそんなことをしたのかは理解しかねても、氷河が仲間を侮辱していることだけは、瞬にも感じとれたらしい。
客間のソファから動きもせずに──驚きと羞恥のせいで、その場を動けずにいるのだろう──瞬が、氷河をなじる。

氷河は、ちらりと室内を振り返って、瞬の激昂している様を認めると、
「……許せ」
と、ぶっきらぼうに謝罪の言葉を口にした。

「…………」

それを聞いた瞬が、すとんと、怒らせていた肩を落とす。
どうやら、瞬はこんなことをされたというのに、そのただ一言の謝罪で、氷河を許してしまう──らしかった。

が、瞬が許せても、紫龍は、氷河を許すことはできなかった。
自分の所有権を主張するために、瞬にこんな真似をさせるなど許されていいことではない。

そもそも氷河は、彼の恋人に岡惚れしている男に、プライドを守れと言っているのか、捨てろと言っているのか、そこからして、紫龍にはわからなかった。


「貴様、どういうつもりなんだ」
「わからないのなら、貴様は相当の馬鹿だ」

「俺に、こんなシーンを見せられて欲情している自分を否定しろとでも言うのか」
「ああ、そういう方法もあるのか。それでもいいぞ、それで貴様が瞬に近寄らなくなるのなら」

「そういう方法も……? 他に何が……」

氷河は、紫龍の理解の遅さに苛立ちを覚えているようだった。
歯切れの悪い紫龍の言葉を、彼は最後まで言わせなかった。

「俺は、貴様が実は恐ろしくプライドの高い男だということを知っている。普段は温厚そうな顔をしているがな。一輝と同じ、日本男児の気概というやつだ。馬鹿馬鹿しい」

「──無意味なプライドを捨てろというのか。そして、俺が開き直ったらどうするんだ。プライドを捨てて、俺が瞬に……」

「同じ土俵に立って、貴様が俺に敵うものか」

「…………」


紫龍は、初めて、氷河の言葉の意味を理解した。

瞬を気にかけ始めた危険分子を排斥するために、自分に優位な場所へと敵を引き出すための、それは、氷河の挑発だった──のだ。






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