「動けるか」
ハーデスが尋ねてくるのに、瞬は首を横に振った。

誰のものなのかわからない白いブラウスを着せられている身体の、どこが痛むというのでもない。
痛みのないところなどなかった。
ただ、それを自分の身体だと思うことができない。
瞬が身体を動かすことができないのは、痛みのせいではなく、“それ”を自分の身体だと思うことができないせいだった。

「では、もう少し、ここで休んでいなさい」
「ここはどこ」
「王宮の……秘密の部屋だ。私しか知らない」

王も? あの、生け贄を食らう悪魔のような国王も? ――不安そうに視線で尋ねた瞬に、ハーデスは否とも応とも応えなかった。
そして、彼は、話を逸らした。

「君の騎士殿は、君の裸体を見る機会があるか? ――つまり、着替えや入浴の世話をすることが」
首がそれにも横に首を振ると、ハーデスは小さく頷いた。
「では、動けるようになったら、公爵邸に帰り、何事もなかったような顔をしていなさい。その――痕跡が消えるまで、君の騎士殿に肌を見られるようなことをしてはいけない」

長い沈黙を、瞬は作った。
ハーデスの言葉の意味を理解するために、瞬には長い時間が必要だった。

そして、理解した――否、感じた。
「……そう……。僕は、氷河に知られちゃいけないようなことをされたんだね」

「公爵殿……」

せめて唇を噛むくらいのことをしたいのに、今の瞬にはそれもできなかった。

「知らせなければいいだけのことだ。公爵殿は何も変わっていない。公爵殿自身も忘れなさい」
「氷河に嘘はつけない」
「嘘ではない。ただ……言わないだけだ」

ハーデスのその言葉を聞いた途端、瞬の瞳には涙があふれてきた。
それが嘘であろうと、“言わないだけ”であろうと、氷河に秘密を持つことなど、瞬にはできることではなかった。


「どうしよう……氷河が悲しむ……」
「…………」
「氷河が悲しむ……僕は、どうしたらいいの……」

「そんなことはない。彼は――君があんな下劣な男に汚されたからといって……」

瞬が瞳を見開く。
やっと、自分が何をされたのかを、瞬は“言葉で”理解した。
「……そう。僕は汚されたの……汚れたの……」

「いや、そうではなく――」

「氷河は……もしかしたら悲しまない……?」
「公爵殿?」
「悲しまないで、僕を嫌いになる……?」

そう思い至った途端、瞬の頬からは血の気が引いていった。

国王からも権力からも見捨てられた公爵家。
誰が見捨てても、初めて会った時と変わらずに自分の許を訪ね続けてくれた人に疎まれるようになるかもしれないという可能性。
それを考えただけで、瞬は、自分が生き続けることの価値も意味も見失ってしまうような気持ちになった。

「そんな……そんなこと、僕……」
そんなことになったら――そんな時、人はどこから生きる力を得るものだろう。
誰も、自分の存在に気をとめてもくれないのだと思わざるを得ない時に。

瞬は、僅かに身体に残っている力を振り絞って、寝台の上に身体を起こそうとした。
自分が生きていくために、何かをしなければならない。
だが、自分に何ができるのかは、瞬にはわからず、自身の身体を支えようとする瞬の力はすぐに尽きた。

「そんなことになったら、僕……」

それでも身体を起こそうとした瞬を、意外なことにハーデスが、その両手で支えてくれた。
彼は瞬の肩を抱くと、本来は王位継承権を巡るライバルであるはずの瞬を、激した口調で叱咤した。
「公爵! 公爵殿は強くなるんだろう? 弱いままではいないと、そう言ったではないか!」

「氷河が側にいてくれないのに、強くなって何になるのっ!」
悲鳴のような声でハーデスを怒鳴りつけてから、瞬がはっと我に返る。
「ち……違う……。僕には理想があって……お父様の遺志を継いで、この国をいつかきっと平和で豊かな……」

だが、そんな理想だけを支えに生きていくには、
「氷河がいないのに……氷河が側にいてくれないのに……!」
瞬はまだ幼すぎた。

「王子様になったら……王子様になったら、氷河がいつも側にいてくれて、もう寂しい思いも苦しい思いもせずに済んで、僕はずっと幸せでいられるんだと、そう信じていたのに……!」



彼がいないと寂しくて苦しかったのか――。

それが恋というものだと言おうとして、だが、ハーデスはその事実を言葉にするのをやめた。

こんなことで、恋を自覚するのは不幸である。
教えるのは残酷だと思った。

それより何より、彼の中には、激しい妬心があった。
氷河への嫉妬というより、それは、影の――光への嫉妬だった。






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