「公爵」 瞬が鉄の扉の陰に戻ると、そこには、危険を冒して瞬をこの牢獄まで連れて来てくれた男がひとりいるきりだった。 「ありがとう」 小さな灯りの下で、“友人の”純粋な好意だけを信じて礼を言ってくる瞬に、ハーデスは少しばかり良心に痛みを覚えた。 あるいはそれは、瞬の純真に苛立ちを感じてしまう自分自身への怒りだったかもしれない。 が、それよりも彼は、こんな事態だというのに瞬があまり陰鬱な目をしていないことの方が気になったのである。 瞬は、真剣な表情をたたえてはいたが、その眼差しは、迷い事を振り切って意を決した人間のそれに似ていた。 王の求めているものが何なのかを知っている人間が、そんな目をしていられるものだろうか。 「どうする気だ? どうやって騎士殿をここから出すというんだ」 「陛下にお願いする」 「だから、どうやって」 憑き物が落ちたように、むしろ晴れやかにさえ見える瞬の様子を見て、瞬はこの国の支配者の本性が本当にわかってるのかと、ハーデスは訝った。 その懸念が見事に的中する。 氷河の忠心を失っていないと確信できてしまった瞬には、恐れるものがなくなってしまったらしい。 「僕の公爵位も領地も王位継承権選定に臨む権利も全部陛下に返上する。その上で、国外追放への減刑を願い出て──」 陵辱は、虐げられる側の人間が、その行為に快感を覚えることこそが最大の屈辱である。 おそらく瞬は、王に暴力を加えられた時、ただ苦痛だけをしか感じなかったに違いなかった。 自分が王に何をされたのか、瞬はその意味すらまだ理解できていない。 瞬にとって、それは、汚い手で触られただけ──のことでしかないのかもしれなかった。 だから、瞬は、健全で健康的な自分の価値観が誰にでも──あの王にさえ──通じるものと思い込んでいるのだ。 ハーデスは、瞬の言葉を鼻で笑った。 「馬鹿げたやり方だな。公爵位はともかく、領地や王位継承権は、公爵殿が返上しなくても、王が好き勝手に与奪できるものだ。それを返上も何もないだろう」 「無一物になって、僕と氷河がこの国を出ていけば、陛下はもう命を狙われることもない。陛下はそれで安全と安心を手に入れられることになるでしょう?」 「あの男が望んでいるのは、公爵と騎士殿があの男の力に屈して、自分の意思を捨てることだ。あの男は、それを見て初めて自分の力を確信でき、安心するんだ」 愛されていることで心を安んじられる瞬と王とでは、その価値観がまるで違うのだ。 いずれにしても、自分の価値観で他人の意図を測るという行為は無意味であり、危険でさえある。 ハーデスは、今度は逆に、王の定規を瞬に当てはめてみせた。 「いちばんいいのは、君があの男の力に屈してみせることだ。そうすれば、爵位も領地も安泰、うまくすれば君は次期国王だ」 「屈するというのは、どういうこと」 「わかってるんだろう」 氷河に疎まれることにさえならないのであれば、“それ”は、瞬にとっては、ただの拷問だったのだろう。 瞬はきっぱりと左右に首を振った。 「……氷河が牢に繋がれるようなことをしたのは、そのせいだもの。氷河は、そんなこと嫌なんだよ。氷河の嫌がることなんかできない。僕は僕のすべてを――お父様の遺志も捨てると言ってるんだ。それ以外に何もできないから」 「与えられたものを捨てることなら、誰にでもできる。自分が得たものを捨てることを、人は犠牲として認めるんだ」 「僕は何も持っていない」 「持ってるさ。君が自分で培ってきた、その意思と――愛だ」 瞬にとってそれは、“持っているもの”ではなく、自分そのものだった。 自分から分かち、誰かに手渡すことなど考えることもできない。 「あの男はそれを踏みにじるのが好きなんだ」 「意思や愛は与えたり奪ったりできない」 「自由を奪い、身体を傷付け、プライドを踏みにじることで、変えることはできるさ。少しずつ。私がそうだった」 「…………」 それは、王が、ハーデスに対して、そういう力を振るったということなのだろうか。 そして、ハーデスはその力に屈した──と? 瞬には、今、自分の目の前にいるハーデスが誰かの力に屈した人間には見えなかった。 相変わらず皮肉と退廃の空気は彼にまとわりついていたが、ハーデスの眼差しには完全な諦観だけは窺い得なかった。 |