「杯に毒でも仕込むつもりか。騎士殿が、そう簡単に私と王への恨みを忘れはずがないとは思っていたが」

ハーデスの口調は、話題が自身の命に関わることだというのに、妙に楽しそうだった。
数段ある階段を、ゆっくりと下りてくる。

「誓約の杯を乾すのは十中八九、私と王だが、今のところ、形勢は五分と五分。王の気紛れで、公爵殿が毒杯を仰ぐことになるかもしれないぞ」

彼の言動に統一性がない理由は、氷河にもいい加減にわかりかけてきていた。
彼には、“いちばん大切なもの”がないのだ。

命、人、理想、地位、名誉、財産、安定、そして、恋。
人間には、その瞬間瞬間に転変せず、ある程度の期間持続されれる、自分にとって大切なものの優先順位がある。

だが、おそらく、ハーデスにはそれがないのだ。

大切なものがないわけではないが、何がいちばん大切なのかがわかっていない。
我が身可愛さの日和見主義でもなく、優柔不断なわけでもなく──普通の人間なら、さっさと順位をつけて下位のものを切り捨てるような場面で、彼はそれをしない。
へたに頭脳が明晰で、並列な思考をこなせるせいで、普通の人間ならとうに破綻しているような状況を混乱もせずにやり過ごせているのだ。

優先順位の1も2も3も瞬ひとりだけの自分は、ある意味では最も楽で怠惰な生き方をしているのかもしれないと、氷河は思った。


「──瞬様は、酒が飲めない」
「なるほど、口をつけるだけというわけか。しかし、毒見の者がいる」
「無関係な者を巻き込むような計画を立てるほど、俺は馬鹿じゃない。だいいち、今、貴様と王が暗殺されたら、嫌疑は瞬様に向く。それに――」

ただ、瞬のことだけを考えていればいい。

「人殺しはできない。瞬様が……悲しまれる。たとえ死ぬのが、どんな下種でも」

瞬の心の安寧を妨げることだけを心配していればいい。

「騎士殿は、公爵のせいで馬鹿だが、公爵のことになると賢明なのでありがたい。王を殺すのは私だ。邪魔をしてもらっては困る。騎士殿は、私が王を殺した後で、私だけを殺す算段をした方が楽だろう」

分裂症気味の男の口調は、唯一の価値観と唯一の至宝をしか持っていない男をからかっているように軽々しかった。
殺意が皆無とは言い難い男に、笑いながらそんなことを言ってのけるハーデスの神経は、やはり氷河には理解し難かった。

あの王の命ならともかく、自分のものまで──命というものをそこまで軽く語る男が、氷河は不快だった。

「貴様は死にたいのか」
「君か公爵に殺されるのが理想だ。さぞかし甘美な死を迎えられることだろう。いいねぇ」
そう告げるハーデスの目は、半ば本気で陶然としている。

「貴様は狂っている」

かつてのハーデスが、もし瞬と同じような暴力で王に屈せられたのだとしたら、彼が王を恨む気持ちはわからないでもない。
彼が本当に王への復讐を望んでいるのだとしたら、氷河はそれを妨げるつもりも咎めるつもりもなかった。

だが、たとえ、それが、復讐相手の油断を誘うための手段だったとしても、瞬を犠牲にすることだけは許せない。
狂っているのだとしても、許せなかった。


「狂っている……そうかもしれないな」

自覚のない狂人が、ふと呟いた。






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