「瞬くん、元気でね。もうここには来ちゃ駄目よ」
(嘘嘘。何度でも来て欲しいなー)

白い個室を後にする瞬に、その看護婦はにっこりと微笑みかけてきた。
わざわざ病院の玄関まで見送りにきてくれた彼女の親切を思い、瞬は素直に彼女に頷き返してみせた。

退院のちょっとしたセレモニーは、それで和やかに終わるはずだった。

「あら、お嬢ちゃん、危ないわよ」
(どこのガキだよ! 病院で走り回るなんて、親は何してるのさっ!)

その場に、一人の小さな女の子が駆け込んできたりしさえしなければ。

看護婦のひどく乱暴な思念に、瞬の心臓が跳ね上がる。

「あ、すみません。ちょっと目を離した隙に。ほら、マリちゃん、お姉さんに謝りなさい」
(どうして、この子は、こう落ち着きがないの! いくら母親でも、四六時中こんなのの相手なんかしてたら、身体がもたないわよ!)

「いいえ、元気なお嬢ちゃんですね。でも、病院では静かにしてちょうだいね」
(3歳くらいかー。いちばんうるさい歳頃だな。病気じゃないなら、病院なんかに連れてくるなよなー)

看護婦と少女の母親の穏やかなやりとりから、瞬は無理に意識を逸らした。
途端に、それまで意味のない音にすぎなかった病院の待合室のざわめきが、言葉という形をとって、瞬の中に飛び込んでくる。


「リウマチですか。それはお辛いでしょう」
(もう、その話は聞き飽きたんだよ、くそジジイ! なんでまた、こんなのと会っちまったんだ……! そんなに辛いんなら、とっととくたばっちまえ!)

「お若い人はいいですな。そんなお怪我もすぐに治るでしょう。実に羨ましい」
(たとえどんな馬鹿でも、健康がいちばんだよ、まったく)

「処方箋はこちらです。薬局でお薬を受け取ってから、お帰りください」
(あーあ、今日は早く帰りたいなー。病人の愚痴を聞かされるのは、もううんざり!)

「まだ少し、お辛そうですね。お大事になさってくださいね」
(今日の夕食、何にしようかなー。たまには、あの宿六が作ってくれればいいのに。二人とも働いてるのに、どうして私だけが家事をしなきゃならないのよ、ほんとに)


突然、瞬に襲いかかってきた悪意、無関心、辟易、憤り、焦慮。
人間の外側と内側のあまりの背馳に、瞬は押し潰されそうになった。

額に脂汗がにじみ、瞬は、思わず、自分の傍らにいた氷河の腕にすがりついてしまったのである。

「瞬?」
(どうしたんだ、急に)

「早く……帰りたい、城戸邸に」
それだけ言うのが、瞬には精一杯だった。

(? 様子が変だな。完治したんじゃなかったのか。おかしいぞ)

自分が“おかしく”なってしまった理由を、氷河に――仲間たちに――告げることはできない。
人の心に恐れと嫌悪を覚えながら、瞬は、それ以上に、自分が仲間たちに気味悪がられ、避けられることを怖れていたのである。






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