「なーんだ、じゃあ、俺が教えてやるよ」
「えっ !? 」

瞬が、驚愕というものに支配され始めたのは、おそらく、氷河が掛けていた椅子から腰をあげた時でも、その手が瞬の顎に伸びてきた時でも、氷河の唇に自分の唇をふさがれた時でもなかった。
それほど、瞬の“驚愕”は遅れてやってきたのである。

瞬は、氷河の舌が自分の舌を捕えようと蠢くのを意識して初めて、まともに驚いた。
その生温かい感触に、瞬は、息をするのも忘れて瞳を見開いた。

氷河の金色の髪が、瞬の睫に触れる。
瞬は、手に道徳の教科書を持ったまま、全身を硬直させていた。

やがて、氷河の唇が、瞬のそれから離れる。
彼はこれ以上ないほど正確な真円を描いている瞬の瞳を見るや、たった一言。

「下手くそ」
――と言った。

「あ……あ…… !?」
その時になっても、瞬はまだ、自分が氷河に何をされたのかを正しく認識できていなかった。
瞬は、オトナのキスから解放された唇を閉じることすら思いつかずにいたのである。

そんな瞬に、氷河が肩をすくめてみせる。
「日本じゃともかく、ロシアでは挨拶だぞ、こんなの」

どうやら氷河の身体にはスラブの血が入っているらしい。
間の抜けた話だが、瞬は、以前テレビで見た、ロシアの大統領と旧西側某大国の大統領の抱擁シーンを思い出していた。
「あ……あの……」

「しょーがないなー。瞬、こういうの、全然ダメなのか? 道徳やめて算数にしよっか?」
「う……うん……」

氷河には、それは、それこそ挨拶程度のことでしかないらしい。
ここで取り乱してしまうわけにはいかないのだと、瞬は必死に自分に言い聞かせた。

だが。
ファーストキスを、6つも年下の小学生に――しかも男の子に――奪われたというのに、その事実に取り乱してはいけないと思わなければならない現実が、瞬の混乱をかえって大きくした。

それでも、やはり、ここで取り乱すわけにはいかない。
瞬は、懸命に、氷河が取り出した算数の教科書のページを繰ろうとした。
それなのに、その手が小刻みに震えるのを、どうしても止めることができない。
止めることができなかった。


そんな瞬の様子を眺めて、氷河はひどく楽しそうな顔をしていた。
6つも年上の瞬を驚かすことができたのが得意なのか、うまく悪戯をし遂げたガキ大将のような目を、瞬に向けている。
その瞳は、瞬が戸惑いを覚えるほどに明るく輝いていた。






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