「僕の心と対峙するだけなんだから、場所はどこでもいいのかな……」
そう呟いて、瞬は、ひとりで城戸邸を出た。

「ううん。やっぱり、あの孤独な場所に行かなきゃならないよね」
自分に言い聞かせるようにして、氷河の待つ場所に向かう。


見渡す限りの場所に他の人家もない、シベリアの氷河の家。
その周囲の雪は既に消えていたが、そこには、ひと月ほど前と同じように、あの白い花が咲いていた。
そして、その花の横に小さな犬が一匹、心許なげに佇んでいた。

「氷河……。僕が花を好きなのは、氷河が花に似ているからだよ」
花にとも“氷河”にともなくそう告げて、瞬は、その小犬を抱き上げた。
“氷河”が、短く切なげな鳴き声を洩らす。


「氷河。僕は、逃げる氷河を追いかけて、捕まえて、振り向かせて、そして、抱きしめたい。だから、氷河、元に戻って」
少しぎこちなく、瞬は、自分の腕の中の“氷河”に告げた。

「氷河は、昼も夜も、氷河のしたいように、氷河の意識を保って、自分の意思の通りにすればいい。僕もそうする。衝突することや、折り合わないことがあったら、二人で話し合ってみようよ」

人間が誰でも、ごく当然のように備えている勇気と思い遣り。
臆病すぎてぶつけ合うことのできなかったその二つを取り戻すことを、瞬は“氷河”に提案した。

「どちらかが、どちらかを完全に支配して幸福でいるなんて変だよ。そうでしょ?」


瞬の腕の中から“氷河”が消える。
たった今まで小犬だったものは、今は、瞬にも氷河にも似た、あの白い悪魔の姿になっていた。

確かに、それは、瞬の心と氷河の心とが作りだしたものだったに違いない。
彼は、ひと月前のあの夜よりもずっと穏やかな目と表情をしていた。
あの夜、彼の眼差しの中に見え隠れしていた挑発と自棄と焦燥と嘲り──そんなものが薄れてきていた。
おそらくは、瞬自身の変化のせいで──。

「それでいいのか? 臆病風に吹かれると、氷河はまたシベリアに逃げ込むかもしれないぞ。氷河は、瞬が望んだ時に必ず側にいるとは限らない。“氷河”は、元の氷河に戻ると、瞬の望む通りの氷河でいることはできない」

「……そういう氷河を、僕は好きになった。氷河がシベリアに逃げ込んだら、そのたびに僕が連れ戻しにくるよ。氷河も、僕を望み通りにはできないと思って。気分が乗らないときには、拒むかも」

悪魔の中から瞬の心が抜け出て、それは瞬の中に戻ってきた。
瞬の前に立っているのは、今は氷河だけになっていた。
「俺の意思で、おまえにあんなことしても、俺を嫌わないか」

自分ひとりになった氷河が、最初に尋ねてきたことがそれだったということに、瞬は苦笑した。
「氷河は……もっと早くに教えてくれればよかったんだ。あんなに気持ちいいことなら」
「無茶を言うな。おまえが、あんなに、俺を受け入れられるようにできているなんて、俺にはわからなかった」
「僕自身、僕がこんなだなんて、知らなかったから……」

そう言って、瞬は、氷河の胸に手を伸ばした。

白い悪魔が消えていないことはわかってた。
瞬の中にも氷河の中にも、すべての人の中に、それはいる。

すべての人が飼っている悪魔――それは、実は、『悪魔』という名の存在ではなく、『希望』や『夢』と呼ばれていいものなのかもしれなかった。
“それ”を、悪を生むものにするか善を生むものにするか、幸福をもたらすものにするか不幸を招くものにするか。
結局のところ、すべてを決めるのは、神でも悪魔でもなく──“それ”を飼っている人間の心であるに違いなかった。

氷河の“それ”と瞬の“それ”は、あまりにその望みがお互いだけだったために融合して、別の姿を手に入れてしまっただけだったのだろう。
他の人間の、体温も吐息もない、この孤独な場所で──。






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