「前置きはもういい。つまり、 氷河が、慇懃無礼を通り越した挑戦的な口調で、沙織に尋ねる。 紫龍と沙織のやりとりは、既に怪しげな薬を飲まされてしまった人間にとっては、もはやどうでもいいことだった。 「瞬に惚れ薬を、氷河に惚れられ薬を飲ませたの」 にっこり笑って、沙織は、実に端的に事実のみを口にした。 それから、まるで煽り立てるような目をして、瞬の顔を覗き込む。 「この薬は強力よ〜。飲んで5分もすれば、象でも欲情するわ 効き目は今のところ、約3時間。どんな清純な乙女でも、たちまちとんでもない色情狂に早変わりよ」 「あ……」 瞬は、瞬の変化を期待し観察するような沙織の眼差しに そうしてから、恐る恐る氷河の方に視線を巡らせ、次の瞬間、真っ赤になって顔を伏せる。 どうやら、象をも欲情させるという強力かつ高価な薬は、早くもその力を発揮し始めたようだった。 「さ……沙織さん! どうして瞬で試すんです!」 瞬が飲まされた惚れ薬の効力が、どうやらただのはったりではないらしいことを見てとった紫龍が、掛けていた椅子から立ち上がって、沙織を糾弾する。 「氷河に飲ませて盛りがついたって、それが薬のせいかどうかわからないじゃない」 沙織は、しかし、彼女にとっての理路整然を貫くつもりのようだった。 「そうではなくて、せめて、男女の志願者を募って、実験をしたらどうかと言ってるんです! 相応の謝礼を払うことにすれば、志願者も出てくるはずでしょう!」 「これは、DNAの構造やホルモンに影響を受けるような種類の薬ではないの。男同士で効果があれば、異性間でも有効よ。だいいち、普通の人間に人体実験なんかできるわけがないでしょう。それこそ人権問題になるわ」 「人権がないのか、聖闘士には」 この事態を楽しめばいいのか憂うべきなのかの判断に迷って、それまで沈黙を守っていた星矢が、ふいにぼそりと呟く。 しかし、沙織には沙織の都合と理屈があるらしく、彼女は星矢のぼやきも綺麗に聞き流した。 「これは、象をも欲情させる強力な催淫剤でもあると言ったでしょう。たった3時間と言えば、それは確かにその通りだけど、3時間もの間ずっと欲情し続けていてご覧なさい。身体の弱い人なら死ぬことだってありえるわ。私は、だからこそ氷河と瞬を被験者に選んだのよ」 さすがはアテナ、と言うべきだろう。 その理論は、人智を超越していた。 「それに、この実験の被験者には、両思いで、だけど片方が拒んでいるカップルがいちばんの適役でしょ。そんなカップル、いちいち探してなんかいられないわ。一般に公募をかけてみたところで、そんな都合のいい二人がそうそう簡単に見付かるはずもないし、確認のしようもない。ちょうどいい二人がこんな身近にいるのに、どうしてそんな手間をかけなければならないの」 「しかし、氷河と瞬には、氷河と瞬なりの考えがあって、こういう状態でいるわけなんですから──」 氷河と瞬が、本当に“考え”があって、現在の“仲間”という関係を保ち続けているのかどうかを、実のところ、紫龍は知らなかった。 紫龍が、つい昨日まで、そんな二人を焦れったく思っていたのもまた事実だった。 しかし、その状態は、決して薬などで解決されていいものではない。 いいものではないはずだった。 だが、沙織は、その件に関しても、彼女の論理を持っていた。 「瞬が氷河に好きだと言ってないのも、二人が肉体関係を結ぶに至っていないのも、瞬が臆病で、氷河が不甲斐ないだけのことでしょう。この薬は、そんな二人の背中を押してやる力を持っているのよ。二人にとっても悪いことじゃないはずだわ」 沙織の言い分にも一理はあった──かもしれない。 その薬を当人たちが当人たちの意思で飲んだというのであれば、確かにそれは第三者が口出しすべきことではなかったろう。 問題は、二人がその薬を他人に“飲まされた”という事実だった。 |