「あ……あ……」
瞬の頬は──耳朶まで──朱に染まっていた。
そして、もじもじと落ち着きなく身体を小刻みに震わせている。

瞬のその様子に気付いているのかいないのか、沙織は滔々とうとうと薬の効能を披露し続けた。
「この薬のもう一つの優れている点はね、相手を限定できるだけじゃなくて、自分ではどうすることもできないということなの」

「……それはどういうことですか」
紫龍の口調は、既に諦めモードに入っていた。
沙織への反論は、暖簾に腕押し、糠に釘。
しかも、瞬が飲まされた薬は、どうやら既にその力を発揮し始めているらしい。
もはや、誰のどんな反駁も無駄でしかない。

紫龍以上に、沙織は、その事実を心得ている。
紫龍とは対照的に、沙織の口調は、更に勢いを増してきていた。
「この惚れ薬を飲んだ相手に力を及ぼせるのは、対応するフェロモンを発する相手だけなの。要するに、マスターベーションじゃ楽になれないということよ。氷河じゃなきゃだめなの」

今、瞬の目の前で、惚れ薬の効能を得意げに語る沙織は、青銅聖闘士たちの女神ではなかった。
今の沙織は、自らの支配する企業の利益を図る経営者──それも、かなり仕事を楽しんでいる──企業人以外の何ものでもない。

瞬の頬が更に赤味を増したのは、彼が飲まされた薬のためばかりではなかったろう。
沙織が口にした処女神にあるまじき単語のせいか、彼が氷河を好きでいることをバラされたせいか、はたまた、隠しているつもりでいた秘密が周知の事実だったことを知らされたせいだったのか──。
あるいは、それは、その全部のせいだったかもしれない。

瞬は、ふいに、掛けていたソファから立ちあがった。
それ以上その場にい続けることが、精神的にも肉体的にも不可能になりつつあったらしい。

「しゅ……!」
おぼつかない足取りで客間のドアに向かった瞬を見て、氷河もまた、掛けていた椅子から腰を浮かしかける。

「瞬、あまり我慢しない方がいいわよ」
やっとドアに辿り着いた瞬に、沙織は、幾分気遣わしげな口調で言った。
恐る恐る後ろを振り返った瞬の視線を捉え、にっこり笑って言葉を続ける。
「狂うから」

「……!」
おそらく、その時、瞬の目には、沙織の姿が悪魔か魔女にでも見えていたことだろう。
美しい少女の姿をした悪魔に怯えた瞬は、逃げるようにして、ドアの向こうに姿を消した。






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