「おまえらは、ここを動くなと、お嬢様からのきついご命令だ」 こればかりは昔から変わらない、星矢たちを見下すような態度で、剣道三段辰巳徳丸氏は断固として言い張った。 それを、瞬がにこやかにかわしてみせる。 「沙織さんは、僕たちに聖域に近付かないようにと言っただけなんでしょう? 僕たちはちょっとドイツに旅行に行くだけですよ。深い森に綺麗な湖、壮大なドイツアルプスの風景。僕、ずっと前から行ってみたかったんだ。ね、氷河」 「氷河と瞬が行くなら、俺も行く〜」 「氷河と瞬と星矢が行くなら、当然俺も」 「おまえら……」 のんびりと美しい風景を愛でる風雅の心を持ち合わせている青銅聖闘士たちではないことを、剣道三段辰巳徳丸は、よくよく承知していた。 この青銅聖闘士たちが、あわよくばそのまま聖域に雪崩れ込もうとしているのだということも、である。 が。 誰よりも沙織の許に馳せ参じたい心を抑えているのは、他ならぬ辰巳自身だった。 青銅聖闘士たちの勝手な行動を、彼に許せるはずがない。 「アテナの命に背くわけじゃないですし、ほんとにただの旅行で行くのなら構わないでしょう? 辰巳さんにはお土産にドイツワインを買ってきますよ。聖域には近付きませんから」 風雅の心はともかくも、瞬は、『状況によってはどうなるかわからないけど』という、言わずにおくべき言葉を言わずにおく賢明さだけは持ち合わせている。 剣道三段辰巳徳丸は、 「お嬢様は──これまで自分のために闘い続けてきたおまえたちを、二度と闘いの場に引き入れたくないと思っておいでだ。おまえたちはもう十二分に闘ってきた。そして、おまえたちはまだ若い。だから──」 「若いって、死ぬにはまだ若いってことですか?」 「む……」 その通りだと言えば、この子供たちは逆に血気に逸って、彼等のアテナの許に駆けつけようとするだろう。 それがわかっているから、辰巳には、否とも是とも答えることができなかった。 瞬も、そのあたりは心得ている。 「星矢たちがどうなのかは知らないけど、僕はこれまで、沙織さんのために闘ってきたわけじゃないですよ。沙織さんの信じるものが、たまたま僕の信じたいものと同じだったから、そう見えるところもあったかもしれないけど──沙織さんのために闘っているように見えるところもあったかもしれないけど、でも、事実はそうじゃない。僕は僕の信じるもののために闘ってきたんです。もし僕が死ぬことがあっても、それは沙織さんのせいじゃなく、沙織さんのためでもなく、自分のため。沙織さんが責任を感じることなんかないんです」 「だが、お嬢様は──」 それでも“責任”を感じ、自分を責める 普通の人間の方が、よほど冷酷に同胞である人間を切り捨てる。 沙織がもっと冷酷な神でいてくれたなら、そして、青銅聖闘士たちを気遣う沙織の命令さえ受けていなかったなら、辰巳は、一刻も早くアテナの許に迎えと、星矢たちに檄を飛ばしていたことだろう。 枯れ木も山の賑わい、聖闘士のヒエラルキーでは最下層の青銅聖闘士でもいないよりは まし、である。 辰巳にとって、青銅聖闘士たちは、見知らぬ黄金聖闘士たちなどよりは余程信頼がおける、沙織のための盾だった。 「心配はいりませんよ。僕たちは旅行に行くだけだから」 辰巳の心を見透かして、瞬はにこりと笑ってみせた。 「聖衣を置いていきます。それならいいでしょう? 闘いたくても闘えない」 『おまえは聖衣を着けていない方が強いくせに』──と、これも言わずにいた方がいい言葉である。 瞬の詭弁に、辰巳は苦く笑うことしかできなかった。 |