沙織が異変の気を察して黒い森にやってきたのは、翌日の夕暮れだった。 さらわれた瞬を、昨日からずっと夜を徹して捜していた青銅聖闘士たちをホテルの一室に集めると、彼女は、日本に帰れと、厳しい口調で彼女の聖闘士たちに命じた。 その言葉を無視して──あるいは、彼には本当に聞こえていなかったのかもしれない──氷河が沙織に断言する。 「あれは間違いなくサガだった」 敵が何者であったとしても、瞬の小宇宙が完全に消えてしまったこと以上に、氷河に衝撃を与える事実はない。 瞬が死ぬはずがない──それも、あんなにもあっけなく、ただの一瞬で──氷河は必死に自分自身に言い聞かせていた。 「敵の正体はわかっています。今度の敵は──とても危険な相手なの。人間の手に負える相手ではないわ。あなた方は日本に帰りなさい。あなた方にうろうろされていると、何かと不都合──いいえ、かえって邪魔なのよ」 それは、沙織の、残された聖闘士たちの身を案じる心から出た辛辣な思い遣りの言葉だったのかもしれない。 が、無理に冷静を装った沙織の抑揚のない声は、氷河の神経を逆撫でするだけのものだった。 「危険も何も! 瞬の小宇宙が消えたんだぞ! 瞬が……」 その先の言葉を、氷河は、これ以上ないほど強く意識して、喉の奥に押しやった。 『死んだかもしれない』などという言葉は、意地でも口にしたくなかった。 「聖衣があったら、もう少しマトモな闘い方もできたんだ」 「あなた方の力では、聖衣をまとっていても、あれには敵いません」 残酷な事実──おそらく、それは事実であるに違いない──を、沙織は氷河に突きつけた。 氷河の頬がぴくりと引きつる。 だが、沙織はあくまでも冷静な態度を崩そうとはしない。 「とにかく、あなた方は日本に帰りなさい。瞬の身は、私が責任を持って取り戻します」 もはや瞬は生きてはいない──と言わんばかりの口振りだった。 氷河が取り戻したいものは、瞬の身体ではなく、瞬の命だというのに。 そんなことを言うアテナは、氷河にとっては敵も同然だった。 彼の女神を無視して、氷河は星矢たちに向き直った。 「おまえらはいったん帰れ。俺はここに残る。元はと言えば、俺がカミュの名に拘泥したのが原因だ」 「しかし、それでは──」 「聖衣がないことには始まらない」 「俺たちをパシリに使うつもりかよ」 「氷河、勝手に話を進めないで。あなたも日本に帰りなさい。これは私の命令ですよ」 敵の正体を知っていながら、それが何者なのかも教えてくれない“敵のようなもの”の指図など受けたくはない。 氷河は、見知らぬ他人を見るような目で、彼の女神を睥睨した。 「俺が何のために闘っているか、知ってるだろう」 「──私のためではないわね」 「地上の平和のためでもない」 「では、瞬のために帰りなさい。重ねて言います。これはアテナの命令です。明日いちばんに、あなた方はここを発つのです」 有無を言わさぬ口調で、沙織は、彼女の聖闘士たちに繰り返し厳達した。 そうしてから、誰にも聞こえないように小さな声で、アテナが呟く。 「人が、自分の死と闘って勝てるというのなら、話は別だけれど……」 それが、青銅聖闘士たちが聖衣をまとっても決して勝利できない敵の正体だった。 |