目覚めた時、氷河は、彼が貸し与えられた部屋の壁にも、大仰な装飾を施した鏡があることに気付いた。
昨夜通ってきた、玄関からこの部屋に通じる廊下の壁のあちこちにも、不思議に映りの悪い鏡が幾つか掛けられていた──ことを思い出す。
この城はナルシストの作った城館なのかと、不快な気持ちが湧いてきて、その鏡を見ることにまで、氷河は不快感を覚えた。

朝──のはずなのに、室内は薄暗い。
明かりが必要なほどだった。
太陽が雲に遮られているせいなのか、この館が陽光を拒むように作られているせいなのかはわからない。
氷河は、それを確かめるために外に出る気にもならなかった。

──あれは、瞬ではないのだろうか?

空腹なはずなのに、昨夜この館に入るまでは感じていた空腹感や喉の渇きを、今は全く感じない。
それを見越しているかのように、氷河の許には朝食への誘いすら来なかった。

階下に下りていくと、例の鏡の前に、自失しているように立っている瞬に出会った。

「瞬」
名を呼んでも返事はない。
氷河の声が聞こえていないはずはないのに。
瞬が氷河の呼び掛けに答えないのは、彼の『自分は瞬ではない』という意思表示なのかもしれなかった。
仕方なく、氷河は、瞬に彼を瞬だと認めさせることを諦めた。

「サガ──夕べの男とはどういう関係なんだ? 親子にも兄弟にも見えないが」
「血縁は──ないと思います」

どうやら瞬は、『瞬』と呼ばれても答えることはしないが、初対面の人間同士としてなら、客人の相手をする気はあるらしい。
氷河は、投げ遣りな笑みを唇の端に浮かべた。

「この森で倒れていたのを救われました。僕、何もかも忘れていたので、そのまま、こちらの館にお世話になっています。あの人は、僕の命の恩人──いえ、僕の活動の可能性の恩人です」
瞬が、自分の言葉に不思議な訂正を入れる。
氷河は、奇妙な違和感を覚えた。

「何もかも忘れていたのなら、ここを出て、失った記憶を取り戻せばいいじゃないか。そうする気はないのか」
「僕、この館を出たら、消えてしまうような気がするんです」
「…………」

瞬が鏡を──鏡に映る彼自身の姿ではなく、鏡を──見詰めていた訳は、そういうことだったらしい。
鏡に映らない自分自身を、瞬は確認していたのだ。

鏡に映らない人間と言えば、吸血鬼や亡霊やそれに類するもの──すなわち命のないもの──しか、氷河には思い当たるものがなかった。
そして、手を伸ばせば届くほど側にいるというのに、氷河は、やはり、瞬の小宇宙を感じ取ることができなかった。





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