「あなたには帰るところがあるんでしょう?」 瞬は、ふいに、鏡を見詰めていた視線を氷河の方に巡らせた。 そして、言った。 「身体を休めて、長く歩けるようになったら、なるべく早くここを出ていってください。そして、僕の代わりに、みんなにさようならを伝えて」 「瞬……?」 もしかしたら、瞬は、本当は何も忘れてなどいないのではないか──。 瞬の言葉に、氷河は微かな期待を抱いた。 「記憶があるのか? 俺がわかるか?」 「……わかりません。何もかもぼんやりしてる。でも、憶えていたって、意味のないことです。思い出そうとしない方が、多分、穏やかな気持ちでいられる……」 そう呟く瞬の表情は、何もかもを諦めた人間のそれだった。 「僕が誰であれ、もう、元いた場所には帰れないことだけはわかる」 自分自身に言い聞かせるようにそう言って、瞬は唇を噛んだ。 「瞬……」 瞬のその力無い笑みが、氷河には信じられなかったのである。 諦めが悪いのが、アテナの聖闘士の身上のはずだった。 氷河の知っている瞬は、こんな無気力な笑みを浮かべる人間ではなかった。 瞬は、諦めてしまわないために、いつも だというのに。 「瞬……それが僕の名前だったの?」 瞬の姿をした、見知らぬ瞬は言うのである。 「気付いているんでしょう? 僕の姿は、鏡に映らないの。この館の主人もそう。ここは、一度死んだ者の住む館。だから──」 だから瞬は、 そんな潔いことが、アテナの聖闘士にできるわけがない。 「俺はおまえを連れて帰る。そのために、俺はここに来たんだ……!」 氷河は、死というものに対抗するように、瞬の身体を抱きしめた。──それは、抱きしめることができた。 生きていた時と同じように、瞬の体温が、氷河の頬と手に伝わってくる。 「僕は……」 「アンドロメダ」 氷河の腕の中で、瞬が身じろぐ。 瞬を逃すまいとして、氷河が瞬を抱く腕に力を込めた時、いつのまにそこにやって来ていたのか、この館の主だという男が、瞬のもう一つの名を呼んだ。 瞬を抱く氷河の腕から僅かに力が抜け、その隙を突いて、瞬が氷河の腕からするりとすり抜ける。 双子座の黄金聖闘士だった男は、氷河の腕を逃れた瞬を自身の方に引き寄せると、僅かに目を 「私の館の者に戯れるのはやめてもらおう」 氷河を見るサガの目は、ひどく冷たい。 昨夜会った時の温和な表情は、今はすっかり消え失せている。 十二宮で見た時のサガとも、様子が違っていた。 異様に静かに、彼は怒っている──ようだった。 彼の怒りが、氷河に向けられたものなのか、あるいは、他の何かに向けられたものなのかを判断するのは困難だったが。 氷河に、それ以上は何も言わず、瞬の肩を抱いたサガが、瞬を生きている者の前から連れ去ろうとする。 瞬がサガの振舞いに諾々と従っているために、氷河は瞬を取り返すための行動に出ることができなかった。 サガと瞬が、あの鏡の前を通って、城館の奥に向かう。 その時、古い鏡は、一人だけ──サガの姿だけを、はっきりと映し出した。 瞬の姿を、映し出すことはせずに。 (あの男は生きている……?) 瞬は、サガもまた鏡に映らない存在だと言っていた。 氷河は、十二宮でのサガの死の場面に立ち会っていた。 そんなことがあるはずがなかった。 |