つい数分前まで、氷河は、瞬に向けられるサガの目に苛立っていた。
その苛立ちが、まるで潮が引くように消えていく。
「そうか」

この男は殺さなければならないと、氷河は、ごく自然に思った。
生きているのなら、殺さなければならない。
死んでいるのなら、存在自体を抹消しなければならない。
どうすればそうできるのかと、この上なく冷静に、氷河は考え始めた。

かつての自分と同じ目で瞬を見詰める男。
だが、氷河の中に、同情心は湧いてこなかった。
瞬を傷付け、瞬を下卑た言葉で侮辱する男に、そんな気遣いをする必要はなく、また、できなかった。

ふと見ると、中世の城のそれのように薄暗いこの部屋にも鏡がある。
そして、その鏡には、サガの姿が映っていた。
氷河も今日は随分と明瞭に、鏡の中に姿を写し取られていた。

「瞬は、おまえは鏡に映らないと言っていたが」
鏡に映る自分自身に気付いて、サガがさっと青ざめる。
氷河は、彼の狼狽の様子など気にもとめなかった。

「俺が生きている程度には、貴様も生きているようだな」
誰が鏡に映ろうが映るまいが、そんなことはもうどうでもいい。

「生きているのなら、殺してやろう」
氷河は、既に死んでいるはずの男を再び殺すことができるのかどうかということすら、考えなかった。
彼はそうしなければならなかったのだ。

「殺すだと? おまえが私をか? たかが青銅聖闘士の分際で──」
サガは、アテナの聖闘士のヒエラルキーの最高位にある黄金聖闘士だった。
そして、ここは、サガには都合良くできている結界の中である。
地べたを這いずる虫けらが何を吠えようと、虫けらは虫けらに見合った力をしか持っていないだろうと、サガは高をくくっていた。
──のだが。

生者はほとんど力を発揮できないはずの結界の中で、だが、異様に氷河の小宇宙は高まっていく。
ありえない事象に驚き、圧倒されたサガは、氷河のその力の源を見極めるべく、氷河の中に探りを入れた。
そして、それを見付けた。

突然氷河を圧倒的優位に導いた力の表層は、怒りだった。
妬心から派生した怒りの力。
だが、更にその奥に、怒りとは違う、もっと静かで強く激しい何かがある。
あろうことか、それは、傷付いたであろう瞬を、更に愛しいと思う心でできていた。
その事実を知った途端に、サガは、その心中にも氷河以上の怒りを覚えたのである。

どうしてここまで、この虫けらは自惚れていられるのだろう──と、サガは、腹立たしさと共に訝った。
なぜ、瞬に愛されていることに、これほどまでに自信を持っていられるのだろう。
この男は、瞬が傷付いていない可能性を考えはしないのだろうか。
瞬が、自分以外の男を求め、その愛撫を悦んで受け入れたとは考えないのだろうか?

氷河の自信と確信は、サガの自尊心をひどく傷付けた。
そして、サガは──サガもまた考えたのである。
この自惚れの強い青銅聖闘士を殺してやろうか──と。
この、幸運で身の程知らずな男と瞬の住む世界を、本当に別のものにしてやろうかと。





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