小宇宙を感じとれない者にはただの睨み合いにしか見えない二人の争いを遮ったのは、瞬だった。

「氷河、やめて!」
瞬は、氷河の名を呼び、死んでいる男の方を庇って、彼の前に立った。

瞬の行動は、サガには意外なことであり、また屈辱でもあった。
もし瞬が、死んだ男の力と生きている男の力を比較して、その上で弱者を選び庇ったのだとしたら。

「瞬……」
瞬に間に割って入られた氷河は、気勢を殺がれて、攻撃性の低減を余儀なくされた。
瞬がサガを庇う──それ自体は不思議なことでも何でもない。
瞬は人を憎めない人間なのだ。
自分を傷付けた人間くらいなら、平気で許してしまう。
だが、だからこそ、瞬の分も、瞬に危害を加える人間を、自分が憎み罰してやらなければならないのだと、氷河はいつも思っていた。

「こいつは、おまえを傷付けた。おまえを侮辱した」
「氷河……!」

その言葉と眼差しから、氷河にだけは知られたくないと願っていた事実を、彼に知られてしまったことを、瞬は知った。
氷河の心を乱すことだけはしたくなかったのに、それはもう叶わない。
瞬は、自身の狼狽を必死に抑えて、彼に対峙した。

「僕は──僕は、死んでるの。氷河のところに戻ることはできないの。だから、僕が、彼を氷河の代わりにしたんだよ。卑怯で愚劣なことをしたのは僕で、サガじゃない。自分の死に勝てなかったのは、僕の方なんだ」

それは事実である。
認めたくはないが、事実だった。
事実なのに──氷河がその事実を信じない──認めない──ことを懸念しながら、瞬は氷河に訴えた。
「氷河、許せるでしょう? ね、僕は許せなくても、サガは許せるよね? 氷河を侮辱したのは僕なんだから、氷河が怒りを向けるのは僕で、彼じゃないんだ」

「こいつを許せだと?」
案の定、氷河は瞬の罪を認めようとはしなかった。
「おまえはわかってない。俺を侮辱することなんかより、おまえを傷付け侮辱することの方が、俺にははるかに大罪だ」

「だとしても……だとしても、氷河、お願い。こんなことで、氷河が人を傷付けるのは嫌だ」
氷河に許され信じられていることの重さを辛く感じながら、瞬は涙ながらに彼に訴えた。
瞬に涙を見せられてしまった氷河が、音が聞こえそうなほど強く、奥歯を噛みしめる。

瞬の涙には、これまで幾度煮え湯を飲まされてきたことだろう。
許せない者を許すようにと、愚かな敵の僅かばかりの善良さを認めるようにと、瞬の涙はいつも、氷河に不本意を強いる。
そして、そのたびに氷河は、瞬に負けてしまうのだ。
瞬の涙に負けてやることが、瞬を救うことだとわかっているために、氷河は瞬に負けてやるしかなかった。

「いつもいつも こうだ! 俺はおまえ以外の誰も許したくなどないのに!」
ふてくされた子供のように、氷河が吠える。
「いいか! 俺がこいつを許すのはおまえのためだぞ。でなかったら誰が……!」

瞬を責めるわけにもいかず、瞬を睨むこともできなくて、氷河は、悔しそうに、瞬と瞬が庇っている男から視線を背けた。
その視線の先に、あの鏡がある。
古い鏡の中で、つい先程まではあれほどはっきり映っていたサガと氷河の姿は、今は霞のようにぼやけていた。
いったいこの鏡は何なのだと、氷河は苛立ちを鏡に向けた。

「私は──」
サガは、自分が許されることに驚いていた。
その“許し”は言葉の上だけのことだと思い、人の憎悪がそんなにも簡単に消えるはずがないとも思う。

だが、驚いたことに、痛いほどに感じ取れていた氷河の怒りは、実際に徐々に弱まっていき、それはやがて本当に消えてしまったのである。
サガには、それは、信じ難い現象だった。





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