生きている──。
自分はまだ仲間たちと同じ世界に存在している。
その喜びを表に出すことは、瞬にはできなかった。
死んでしまった男が──瞬の前に立っていたから。

瞬は、だから、青ざめた頬をして、彼に尋ねた。
「誰なんです。あなたにそんなことをしたのは」

人間ではない。
それは、人間の持てる力ではない。
その者こそが、アテナとアテナの聖闘士の新たな敵なのだろうと、瞬は察した。

「冥界の王だ。名はハーデス」
短い沈黙のあとで、サガはその名を口にした。
「それが、今の私の主の名。私に仮の命をくれた、気紛れで残酷な神の名だ。その名を口にしたら、私のこの仮の命が消えることになっている」

サガのその言葉に、瞬が瞳を見開く。
かりそめのものとは言え、自身の命が消えるとわかっていながら、その名を口にしたサガに、瞬は動揺した。

が、サガの表情には、後悔の色は浮かんでいなかった。
彼は、彼が確かめたかったことを既に確かめた後だった。
僅かに抱いていた希望を、2度目の生においても、失ってしまったばかりだったのだ。

「何度生きても、何度生まれても、私は完全な善ではいられないらしい」
まして、恋のせいで邪心が目覚めるなどとは、サガには想定外のことだった。
今のサガには、諦観しかなかった。
自分という存在に見切りをつけていた。
彼にはもう、希望が残されていなかったのだ。

「そ……そんなの、誰でもそうでしょう! 人は誰も、完全な善でなんかいられない。完全な善なんて──」
「そんなものを求めていたら、人は誰も生きていられないぞ。正義の味方のはずの俺も、あの鏡には姿が映っていた」
そんなサガに向かって、瞬が叫び、氷河が呆れたようにぼやく。
言葉の調子は異なっていたが、二人は、一つの同じ主張を主張していた。

そんなことを事も無げに言ってのける二人の青銅聖闘士に、サガは驚きを禁じえなかったのである。
自分たちを傷付け陥れようとした者を、この青銅聖闘士たちは、なぜそんなにも簡単に許してしまえるのか。
サガはそれが不思議だった。

単純なのか、あるいは無関心ゆえなのか──。
否、やはり強いからなのだろうと、サガは思った。
人を許すという行為は、強いからこそ為せる行為である。
人は、自分を傷付ける者、自分の思い通りにならない者を、許すよりも憎んでいる方が楽なのだから。
憎しみよりも大切なものを知っている人間だけが、人を許すことができるのだ。

「……そんな言葉を、君たちから希望を奪おうとした者に言ってしまえる君たちは、やはり善人なんだ。本当の悪心を知らない、幸福な真実のアテナの聖闘士たち──」
サガは、二人の青銅聖闘士に向かい、呟くように、そう言った。
ほとんど憧憬だけに支配されて。

「かりそめの命を与えられ、肉体を与えられて、私は、この森で無為に時を過ごしていた。カミュやシュラは、再び与えられた命の虚無を悟って、すぐにハーデスの名を口にする禁忌を犯し、元いた死の世界に戻っていった。だが、私にはそれはできなかった。私には、この世界と自分の人生とに後悔と未練があった──」
自分の生を生き切れなかった未練──それが、サガを、この世界にしがみつかせたものの正体だった。

「そんな時、私は、あの森でアテナの聖闘士たちに会った。私は、君たちがあの鏡に映るのかどうかを試してみたいと思ったんだ。私を倒した者が、真実、善だけの存在なのかどうかを確かめたかった」
「だから、僕を──」
だから瞬を、サガはこの館に運び入れたのだ。
そして──。

「照魔鏡に、おまえは全く映らなかった。信じられなかった。おまえが、ほんの小さな影だけでも照魔鏡に映ってくれていたなら、私も、人間とはそういうものなのだと諦めがついていたかもしれない。だが、おまえは映らなかった。私は驚愕し──驚愕すると同時に、憧れた。おまえを私のものにしたいと思った。いや、おまえそのものになりたいと思った──」

「僕に……?」
サガの告白に驚いたのは、むしろ瞬の方だった。





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