それは、ぼんやりとした黒い影だった。
人間と同じ形態を持っている。
漆黒の闇で覆われた姿は、他者に表情を読み取ることをさせず、だが、その闇に見詰められていることだけは、強く感じさせる。
そのものの視線の力は、物理的な力を備えているのではないかと思えるほどの強さを有していた。

「楽しい見世物だった。堪能した。もう沈黙しろ」
影は、思いがけず柔らかい感触のする声を、古い城の部屋に響かせた。
「余は、人間に存在価値がないことを確かめたかったのでな。この男は期待通りの行動をしてくれた。そのうちまた楽しませてもらう。余はもっともっと人間の弱さや醜さを見たい」

そうして、彼は、人間を滅ぼすための大義名分を得ようというのだろうか。
瞬は、その闇が響かせる聞き覚えのある声にひどく恐怖し、震えの止まらない身体を、氷河の胸に預けた。
そうしないと、立っていられないような気がしたのだ。

その瞬の目の前で、サガの姿が、次第にぼやけていく。
消えゆく彼は、苦渋に満ちた表情をしてはいたが、その姿は照魔鏡には映っていなかった。

「私はまた、愚かな罪を重ねてしまったようだ。私は結局、何度生まれ、何度生きても──」

サガの消滅の予兆に気付いた瞬は、自身の恐怖を一瞬忘れた。
そんな悲しい死を、二度までも人は経験する必要はない。
瞬は、どうしてもサガに伝えたいことがあった。

「悔いているのなら! 悔いているのなら、きっと誰かがあなたを許してくれるよ! 僕には、そんな権利はないけど、でもきっと誰かが……! 完全な善だけでできている人も、完全な悪だけでできている人も、世界には存在しないんだ。それを認めてしまえば、きっと楽になれるから! あなたの中のもうひとりのあなたは、そんなに悪い人じゃなかったよ……!」

瞬の言葉を聞いて、微かに微笑したのは、どちらのサガだったのか──。
もしかしたら、それは、今度こそひとり・・・になったサガの微笑だったのかもしれない。

「再び会わずに済むことを願う。……瞬」

穏やかな声でそう言って、双子座の黄金聖闘士は瞬たちの前から消えていった。





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