『なぜだ』
ハーデスは瞬の中から問うてきた。
『人は自分自身を放棄することの快楽に容易に負けるはず。これまでの余のしろたちは誰もが皆、その快楽に負け、余を受け入れた』

苛立たしげにそう言われても、不快なものは不快である。
瞬はハーデスの支配に酔うことはできず、陶酔することもできず、むしろ不快のあまり、精神的な嘔吐感にさえ襲われた。

『そなたの心身には快楽を感じることへの障壁があるのか。快楽というものに嫌悪を覚えるたちか』
的外れなことを、またハーデスが問うてくる。

親しめない相手に身体をのっとられることを喜べる人間がいるはずがないではないか――と、瞬は単純に思った。
瞬にしてみれば、ハーデスは、自らの身体の中に入り込んだ異物だった。
心身がそれを排除しようとするのは当然のことである。

頑として神を受け入れない瞬の執拗な抵抗に、やがてハーデスの方が疲れを覚え始めた――らしい。
瞬を抑え込むために力の大部分を使っていたのでは、彼が行おうとしている事業の遂行に支障が生じる。
彼は、どうあっても瞬を屈服させなければならなかった。

『快楽を知らぬ者は、それを快く感じることもできないのか。清らかすぎるのも考えものだな。 面倒な……』
「あ……」
『自分でしたこともないのか。その歳なら、これくらい知っていてもいいだろうに』
ハーデスに操られた瞬の手が、長衣の裾を割って瞬の身体の中心に伸びる。

瞬は、自分の身体が自分の意思に反して――抵抗する意思を抑え込んで――始めた行為に混乱し、必死に自分の手をそこから払いのけようとした。
が、ハーデスは、瞬にそうすることを許さない。

だが瞬は、最初からハーデスのすることをやめさせようとして もがく必要はなかったのである。
その自慰のようで自慰ではない行為は、結局のところ、瞬に何の変化ももたらさなかったから。
瞬はその行為に不快を感じるばかりで、その身体は完全に無反応だったのである。

実を言うと、瞬はそれを自分の手でしたことがなかった。
そういう行為があることは、以前 氷河に教えてもらっていたのだが、瞬にそれを教えた当人が瞬にその行為を禁じたので――『これからおまえが自分でこんなことをする必要はないから』と言って禁じたので――瞬は、実際にはただの一度も自分の手でそれをしたことがなかったのだ。

「氷河は自分でしたことあるの?」
と訊くと、氷河はそれには答えずに、ただ苦笑だけを瞬に返してよこした。
氷河が答えてくれないことに不満を隠さなかった瞬に、氷河は、
「俺ももう する必要はなくなった」
と告げて、瞬を抱きしめた──。
その行為に関する瞬の知識は、それだけだった。

いずれにしても、氷河に触れられて性器が反応を示すことは自然なことだと――否、氷河が喜ぶからそれは良いことなのだと瞬は思い、その行為に関して罪の意識を抱いたことは、瞬は一度もなかった。
これまでは。

だが今は──。
それが氷河の手や舌で為されたことではないというだけのことで、瞬は性器に刺激を加える行為に激しい嫌悪感を覚えた。
おそらくは、だから、瞬自身の手は瞬を変えることができなかったのである。
そして、ハーデスは、彼が意図した通りの反応を示さない瞬の身体に苛立ちを露わにした。
というより、瞬の頑なさに、ハーデスは呆れてしまったようだった。

「あ……?」
瞬は、突然 身体が軽くなり、自分が自由を取り戻したことに気付いた。
気付くと同時に、瞬は、ハーデスの玩具にされていた自身の身体を抱きしめた。
自然に、瞬の唇から氷河の名が漏れる。
「氷河……っ」
氷河じ・・・ゃない・・・と気持・・・ち悪い・・・――その事実を、これほど明確に自覚したのは初めてだった。
自分の手ですら気持ち・・・悪い・・
瞬は、ハーデスの力に屈して、自らに浅ましいことをしようとした自分の手を切り落としてしまいたい衝動にかられていた。

『ヒョウガ……? それは確か……』
強情な人間に辟易しかけていたハーデスは、瞬の呻きを聞き逃さなかった。
違う空間にいるパンドラの目と記憶を通して、瞬が口にしたものが何なのかを知り、そして、事情を察する。

『そういうことか。余としたことが』
虚空で、ハーデスは、形を有していない自嘲を作った。
『普通のやり方では駄目なわけだ』

瞬に不気味な不安を残して、ハーデスは玉座の間から消えていった。





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