сострадание  〜ソストラダーニエ〜  [II]






「あ……ああ……っ!」
身体の中に生温かいものが染み込む――。
そう感じることが錯覚で、それが腿を伝って外に出てしまうことを、瞬はいつも理不尽に思っていた。

考えても詮無いことなので、息が整うのを待たずに、脱力したままでいたいと駄々をこねる腕と指に力を込め、それらのものを氷河の頬へと伸ばす。
そして瞬は、閉じたままでいたいと訴える瞼を無理に開けて、氷河の顔を見上げた。
氷河が満足していさえすれば、そんな理不尽は些細なことなのだと、瞬は思うことができたから。

氷河は――氷河もまた――瞬の両脇についた腕を伸ばした格好で、瞬の顔を覗き込んでいた。
青い瞳の中に自分がいる。
瞬がほっと吐息して、氷河の名を呼ぼうとした――時。
氷河の唇が、やにわに不思議な音を吐き出した。

「ところで、アンド・・・ロメダ・・・
氷河の顔をしたものが、瞬をそう呼んだのだ。
氷河の姿をしたものは、驚き瞳を見開いた瞬に、重ねて言った。
「そなたは、この顔の持ち主になら いくらでも脚を開くようだが、そなたが愛したものは、この男の綺麗な顔か」

交接の歓喜の余韻も切なさも、すべてが瞬時に吹き飛んだ。
瞬は、今は瞬だけが支配しているはずの身体を動かすこともできなかった。

「氷河……」
その名を口にできるようになるまで、どれほどの時間と力を要したか――。
だが、瞬が費やした時間と力は全て無駄なものだった。
今 瞬を見おろしている男は、瞬が口にした名の持ち主ではなかったのだ。

「氷河ではない。氷河ではないものの下で、そなたは、たった今まで、自らの魂を自分の外に追いやって、あさましく喘いでいたわけだ」
氷河の姿をしたものは、氷河の声で、氷河なら決して言うはずのない言葉を、嘲るように吐き出した。

全身を強張らせたまま――瞬はそれでも、必死に首を横に振ったつもりだった――何とか搾り出した瞬の声が震える。
「嘘……。だって、さっきまで、氷河は僕を瞬って呼んで、いつもみたいに――」
「いつものように、こんな不届きな真似をしたか、
氷河の顔をした見知らぬ男が、氷河の指と手を瞬の性器に絡ませてくる。
「ん……っ!」
瞬は反射的に唇を噛み締め、目を閉じた。

あまりのことに、彼の手から逃げることも思いつかない。
しかも、瞬のそれは――瞬自身の手が触れた時には無反応だったそれは――簡単に氷河の手の感触と指の這いまつわるような動きに歓喜し始めてしまったのである。

「ああ……!」
こんなことはありえない――と思うより先に、瞬は自分自身の身体に打ちのめされていた。
それはあっさりと瞬の意思と心の抵抗を拒絶して、ハーデスの意図した通りのことを し終えてしまった。
全身が小刻みに震える。
瞬は、自分自身をこれほど下劣な生き物だと思ったことは、かつて一度もなかった。

「さあ、これでわかったであろう? 氷河でなくてもいいんだ、そなたは。他者に意思を委ねる心地良さ、自分の存在に責任を負わずに済む快さを思い出し、その相手が誰でもいいことを知った今のそなたなら、大人しく余を受け入れることもできるはずだ。な、?」
勝利を確信したようなハーデスの言葉も――それは、氷河の声だった――今の瞬には、ほとんど聞き取れていなかった。

「氷河……は……」
かろうじて、それだけを口の端にのぼらせる。
ハーデスは、濡れた氷河の指を舐めながら、卑劣な笑みを作って氷河の顔を歪ませた。
「そなたの氷河は、そなたほど純真にできていないので、この器はひどく居心地が悪い。この男の中には、嫉妬やら独占欲やらの不純物が多すぎる。この器では、余は本来の力を発揮できない」

瞬はそんなことを聞きたいのではなかった。
氷河の心がどうしているのか、どうなっているのか、彼は生きているのか、彼の意思は存在しているのか――それだけが今の瞬の知りたいことだった。
それは、ハーデスも承知していたらしい。
彼は、瞬が求めていた答えも与えてくれた。
「そなたが、そなたの身体をおとなしく余に委ねれば、氷河は元に戻る。それが本来の余の目的であったことは、そなたも知っておろう」

それが虚言ではなく本当のことであることを確かめるために、瞬は勇気を奮い起こして、氷河の瞳に真正面から対峙した。
青い瞳が、冥界の薄暗さのせいか黒く沈んでいるように感じる。
だが、その奥にはまだ氷河自身が存在していた。
瞬が見知っている瞳と同じ輝きの片鱗が、まだ残っていた。
否、残っているのだと思わないことには、瞬は生きていられなかったのだ。

我が身を冥王に供すれば、その瞳を元の明るい青色に戻すことができる――。
そう思い至った途端に、瞬の中にあったハーデスへの抗いの意思は消滅した。





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