「俺はおまえを無理矢理 犯した」
「な……何を言ってるの……」
聞き慣れない言葉に戸惑い、瞬が、窺うような上目使いで金髪の仲間の顔を覗き込む。
そうして、そこに苦渋に満ちた氷河の眼差しがあることに気付いた瞬は、氷河の言動を訝る素振りを見え隠れさせつつも、真顔になった。
瞬は、今度は氷河の瞳をまっすぐに見詰め返し、その言葉を繰り返した。

「僕は氷河が好きだよ。氷河は……?」
「もちろん好きに決まっている。俺がおまえを嫌っているはずがない」
「なら、氷河が僕にそんなことするはずがないでしょう?」
「瞬……」
それはそうなのだ。
自分が瞬に“そんなこと”をするはずがない。
あの夜 瞬に乱暴を働いた男は、まるで見えない何かに操られているように、本来の意思と価値観を見失っていた。

だが――事実は事実なのである。
「この痣を、いつ作った」
その事実を思い出させるために、氷河は瞬の手首を掴みあげた。
掴みあげてから、すぐに思い直して、その手から力を抜く。
3日が過ぎても消えずに残る瞬の手首の痣――は、そんな加減をすることも忘れた男によって、瞬の身に刻みつけられた残酷な枷である。
だが、瞬は、氷河に尋ねられたことに、不思議なほど明るい表情で答えを返してきた。

「あ、これ、ぶつけたの」
「これもか?」
同じ痕跡を残すもう一方の手を示して、氷河は瞬に再問した。
瞬が、事もなげに氷河に頷き返す。
「これも」
「どうやって、どこにぶつければこんな痣ができるんだ」
「でも、ぶつけたんだよ」

「瞬……」
どう考えてもありえないことを、瞬はごく自然な様子で“そう”なのだと言い張る。
瞬は嘘を言っているわけではないのだ。
瞬は、仲間を憎まないために、それが真実と信じ込んでいる――。
音がするほど強く、氷河は自らの奥歯を噛みしめた。

「それは、俺がおまえに無理強いをした時に、おまえの抵抗を封じるために押さえつけた指の跡だ。首のそれも、腹にも脚にも痣が残っているだろう。それは全部、俺の無体の跡だ」
「氷河、何を……」
ありえないことを言っているのは、瞬にしてみれば氷河の方なのだろう。
瞬には何の非もないというのに、だが、氷河は、その事実を瞬に告げなければならなかった。

「瞬、思い出してくれ。でないと俺は――」
「氷河?」
「俺が好きになったのは、過酷な闘いも理不尽としか思えない不運も受け入れ、耐えて、笑っているおまえだ。どんな苦しみも悲しみも呑み込み、乗り越えてみせるおまえだ。すべてを忘れて楽に生きようとするおまえじゃない」
「……」
「勝手なことを言って、ひどい奴だと思う。だが、俺は、おまえを好きなままでいたいんだ。おまえに、俺が好きになったおまえのままでいてほしい。だから――だから、思い出してくれ」

「氷河……」
瞬には、自分が何かを忘れているという意識がなかった。
少なくとも、信じられる仲間がいること、アテナの聖闘士として闘い続けてきたこと、その闘う理由――は忘れてはいない。
忘れてはならない大切なことは、すべて覚えているつもりだった。
氷河をこれほどまでに思い詰めた表情にするほど重要な何かを 自分が忘れてしまっている――という事実が、瞬には にわかには信じられなかったのである。

「それは――僕が……僕が忘れてしまったっていうことを思い出さないと、氷河が僕を嫌いになるということ?」
「……そうだ」
「そんな――」
忘れたのだとしても、望んで忘れたわけではない。
だというのに、氷河はなぜそんな残酷なことを言うのか。
瞬には、氷河の求めることに合点することが どうしてもできなかった。

自身の、右の手首に視線を落とす。
そこには、日常の取るに足りない過失が原因でできたはずの痣があった。
数日前には濁った血の色をしていたものが、今では薄い紫色に変化している。
「でも、この痣は本当に……」
自分の預かり知らぬところで、氷河に嫌われてしまいたくない。
その思いに突き動かされて、瞬は手首の痣をじっと見詰めた。

それは、確かに何かにぶつけてできるような痣ではなかった。
それは、瞬の手首を腕輪のようにぐるりと取り囲んでいる。
何かにぶつけてできた痣にしては不自然だ――と思った時、瞬はどちらかといえば、困惑よりも、そう感じる自分自身の感覚と判断力への喜びを感じていたのである。
これを変だと感じる自分は、きっと忘れてしまったことを思い出せるに違いない――そうすることができれば、自分は氷河に嫌われずに済むのだ――と期待して。
だが、次の瞬間、瞬の期待は恐慌に変わった。

何か黒い悪夢のようなものに 身体を押し潰され、切り刻まれるイメージ。
自制を求める声も、解放を求める声も、すべての哀願が冷酷な嘲笑で無視されたこと。
否、彼はむしろ、瞬の悲鳴を楽しんでいた――。
「ひ……」
それが誰だったのかを思い出した瞬の悲鳴は声にならなかった。






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