聖域を抜け出した瞬は、もう2時間以上も、アテネの町をぼんやりと あてどなく歩き続けていた。
その間、擦れ違う人々の視線を避けて、瞬はずっと顔を俯かせたままである。
瞬は、自分の姿が人を不快にすることを怖れていた。

いったい自分の身の上に何が起こったのかがわからない。
否、何も起こっていないとしか思えないことが、瞬は怖ろしかった。
今日の自分の姿は、昨日までのそれと何ら相違がない。
なのに、自分の姿を尋常のものと思うことができないのだ。
こんな怖ろしいことがあるだろうか。

アテネの街は、そろそろ昼食時が近付いていた。
パルテノン神殿を模した近代建築──という矛盾した外観の商店が立ち並ぶ石畳の歩道の上には、冬場にしては暖かい光が跳ねている。

「そこの人!」
「え?」
「昨日、私を助けてくれたお嬢ちゃんじゃないかい?」
その街中で、突然声をかけてきた老人に、瞬は見覚えがあった。
昨日、ギリシャ土産を買いに街におりてきていた時に、瞬は氷河と一緒に、足を挫いて難儀していた老人を自宅まで送っていった。
その老人が右手に杖をついて、とある土産物屋の前の歩道に立っていたのである。

瞬を呼び止めた老人は、自分が呼び止めた人物の顔を見るや息を飲んで、ぱちぱちと幾度も瞬きを繰り返した。
それから、まるで瞬の顔を見てしまったことをすまながるように、視線を横に流した。
「あ、失礼。人違いだ。私が見たのは、花のように可愛い顔をしてるくせに、ものすごい力持ちの……いや、やっぱり昨日のお嬢ちゃんか……?」

彼は、昨日の自分の記憶を辿ろうと必死になっているようだった。
老人のその様子を見て、瞬は確信したのである。
自分が昨日までの自分と違うこと、そして、今の自分が恐ろしく醜い姿をしているのだということを。

昨日の自分の姿を知る老人の前にいることに いたたまれなくなった瞬は、すぐさま踵を返し、その場から駆け去ろうとした。
その最初の一歩を踏み出したところで、瞬が逃げようとしたのとは反対の方向に向かって歩いてきた通行人に勢いよくぶつかる。

「す……すみません……!」
「瞬。俺を放っぽって、一人でこんなところで隠れんぼか」
自分の不調法を詫びる言葉に返ってきた聞き慣れた声を聞いて、瞬は、自分がぶつかった相手が誰なのかを知った。






【next】