「さすがだわ、紫龍。まさか、あの氷河に広告出演を承知させるなんて。本当に、私、あなたをグラードの参謀として正式に迎え入れたいわ」 その夜、事の次第の報告を受けた城戸沙織は、グラード財団の総帥としても、女神アテナとしても、満悦この上なしといった風情で紫龍を見やった。 瞬が自分以外の人間と接することを何より厭い、瞬が自分以外の人間を見る機会・見られる機会を減らすためになら何でもし、そのために自分自身も社会と接点を持つことを極力避けている氷河を、沙織は紗織なりにずっと心配していたのである。 瞬を人目にさらしたくないという氷河が望む気持ちは、沙織とてわからないでもないのだが、それで瞬の世界が閉塞されてしまうのは瞬のためにならないし、氷河自身のためにもならない。瞬が瞬の世界を広げても、そのことによって瞬にとっての氷河の存在意義が薄らぐことはないのだということを、氷河は知るべきなのである。 そのわかりきった事実――しかし、氷河は気付いていない事実――を知ることによって、氷河が今より大らかな気持ちで瞬の美点を認められるようになれば、二人の関係がより良好なものになるのは、まず間違いのないところなのだ。 「まあ、氷河には、せめて、瞬の美点を欠点だと思わなくなる程度には利口になってもらわないと、俺が困るので……。しかし、企業入りは、遠慮しますよ、沙織さん。俺はまだしばらく気楽な身分で遊んでいたい」 「氷河と瞬で?」 「そう、あの二人で。……いや、氷河をいたぶって、と言うべきか……」 紫龍は呟くようにそう言うと、口許に薄く笑みを刻んだ。 僅かに、諦めと自嘲の混じった笑みだった。 すぐに、彼はその微笑を自分の上から消し去ったが。 「それはともかく、約束は守ってください。アメリカA社のスーパーコンピュータのリース」 「わかってるわ。氷河と瞬のポスターで、アイスクリーム販売の実績が倍増しになったら、スパコンのリース代なんて、すぐにペイできるもの」 企業の収益と氷河の性格の矯正。 まさに一石二鳥の機会を得て、沙織は上機嫌だった。 「ついでに、あなたと瞬のポスターを懸賞プレゼント用限定ポスターとして、使いたいって話が出ているんだけどいいかしら? アイスクリームのバーコード500円分で、抽選で1000名に限定ポスタープレゼントなんて企画、どう?」 「それは駄目です」 「あら、何故?」 「これ以上氷河をいたぶったら、さしもの忍耐力男も切れるかもしれない」 苦笑を作ってそう告げる紫龍に、沙織が意味深な視線を投げる。 「理由はそれだけ?」 「沙織さん?」 「氷河はあのポスターを冷静な目で見ることはできないでしょうけど、見る人が冷静な目で見たらすぐわかるわよ。あなたが――」 「すみませんが、おっしゃっていることの意味がわかりません」 平素の彼からは想像もつかぬほど険しい視線でその先を言葉にすることを制されて、沙織は黙り込んだ。 沙織とて、紫龍を敵にまわすようなことはしたくない。 「そうね。ごめんなさい」 「謝罪しなければならないようなことはおっしゃっていないようですが?」 神色自若としか表現の仕様がない紫龍の態度に気圧されて、グラード財団の若き総帥が言葉を失う。 そんな沙織の様子を見やり、紫龍はすぐにその眼差しを平生の穏やかなそれに戻した。 「……瞬に見る目がないのだから仕方がありませんよ、沙織さん」 ここでそう言ってしまえるところが、紫龍の分別であり、余裕であり、氷河より大人な部分であり、そして、おそらくは彼の最大の不幸だった。 「私なら、迷わずあなたの方を選ぶわ」 沙織のその言葉に、紫龍が両の肩をすくめる。 「瞬以外のすべての人間を代表した見解として聞いておきます」 それは、おそらく自惚れなどではなく、中正な事実である。 だが、人が必ず事実に価値を感じるとは限らない。 その現実もまた、中正なる事実なのである。 「アテナが許します。瞬のために、もっと氷河をいじめておやりなさい」 慈悲深い女神の言葉に、紫龍は初めて、その瞳に作り物でない微笑を浮かべた。 |