「それで、城戸様が先日これに目をおとめになって、ぜひとも欲しいっておっしゃられて。あちらも城戸様の熱心さに打たれて、ここを紹介してくれたということなのよ」 安藤がふと物思いからわれに帰ると、亜佐美は小切手を片手にまだぺらぺらとしゃべっていた。彼女がこんなに舞い上がるのも無理はない。この不況の折、即金で買ってくれる客などそんなにいない。 それだけでなく、城戸氷河というのは、同性から見てもむかむかするぐらい見てくれのいい男だ。 さっきから感じているこの醜い感情は既知のもの、そう、嫉妬だ。 こんな若造が美術品を買うだけの金を持っていることには、安藤はたいして驚かなかった。くやしいが、持っているところはいまだにバブルのころと同じだけ持っているものなのだ。金持ちとの付き合いも長かったから、安藤はどうせどこかのニ世だろうと推測した。 「もう、売ってしまったのか?」 安藤の問いかけに、亜佐美は目をぐるっと回した。何を馬鹿なことを、とうとういかれちゃったのかしら、このおやじ、という風に。 「ええ、もう契約は済んだんです。社長はいやしないけど、背に腹は代えられないわ。あとであたしに土下座して感謝するわよ、きっと。あら、こんなところで失礼ですわね。ホホ。」 最後のところだけは氷河に、彼女は半オクターブ高い声で言ってのけた。 「それでは運送会社に、九月九日正午ちょうどに配達させていただくよう申し付けます。美術品専門の業者ですから、扱いに関しては確かですわ。ご安心ください。」 「・・・・・」 「え? なんでしょう、部長」 一瞬のうちにこのぱっとしない部長のことなど完全にわすれて、氷河を見つめていた亜佐美が、ぎょっとしたように振り向いた。彼女は安藤が険しい表情になっているのに驚いて口をつぐんだ。 「私が買うはずだったのに、と言ったんだ。なんてことをしてくれた? 前からここの社長に、金ができたら受け取りにくるから、しばらく置いといてくれと頼んでいたのに。」 それはもちろん口からのでまかせ、とっさに出た嘘だった。 自分の金で作品を手に入れたいと思ったことは、働いていたときには一度もなかった。たしかに『人』には愛着があったが、自分にどうこうできるものではない、それが美術品だという思いがあったのだ。きちんとした保管場所であれば、それが美術館だろうと個人のもとだろうと構わないと思って売却してきた。 ○○画廊の内情がこんなに苦しいと前々から知っていたら、もっと堅実な方法で、信頼できるところに売却されるように手配もしたつもりだ。 氷河は美術部長と画廊の受け付けとのやりとりをまったく意に介していない様子で、これから起こりそうな悶着には興味がないようだった。それがよけいに安藤のしゃくにさわる。こいつはもう『人』を自分のものだと思って安心しきっているのか、と。 しかし今まさに目の前で、ひょっと現われた若造にそうやすやすと『人』をうばわれてたまるものか。 金―――そう、金ならある。平凡な人間が何十年頭を下げつづけた代償が、平凡な退職金だ。安藤は頭に血が上ってきて、勢いあまって氷河にまくし立てていた。 「そうだ。『人』は私がオークションで目をつけて買ってきたものだ。失礼だが、あなたに『人』のよさがわかるとはとうてい思えないんですがね。」 とうとう安藤は言ってしまった。となりではあまりの出来事に亜佐美が白目をむいている。 と、それまで、この画廊に闖入してきた小男のことなど、蚊ほどにも気にとめていなかった様子の氷河が、片方の眉を上げた。 そして、どことなくこの成り行きを楽しんでいるような口調で話しかけた。 「なるほど、部長に先約があった、と。しかし、俺に『人』のよさがわからないとは聞き捨てならないセリフだ。どこがどういいのか、俺に説明してくれないか。」 存外に流暢な日本語だった。 「そ、それは・・・。レルヒ&ホルツはいまだ無名の芸術家ですが、この先絶対に認められるはずなんです。彼らは、作品の鑑賞者に最終的な判断はまかせました。ですからヴィデオ画面によってひとつの概念を鑑賞者に押し付けるのではなく・・・」 しかし氷河は手をひらひらさせ、無頓着に話をさえぎった。 「そんな上っ面の言葉で、あんたのほうが『人』をわかっているというつもりなのか?」 安藤には自分の顔がみるみる真っ赤になっていくのがわかるようだった。 しどろもどろになっているのは安藤のほうで、氷河は涼しい顔でこちらをながめている。 息子ほども年の違う相手に、なんで俺はこんなにむきになっているんだ? 氷河というやつが羨ましいからか。 そうだ、こいつは何もかも持っている。金も、若さも。容姿だっていい。 俺は、俺は何も持っていない。 物はいいが、着古した背広。ズボンだけでなく袖もだいぶ裾をあげた。小さい、といわれることにはどうにか慣れたが、最近では腹もたるんでますますみっともなくなってきた。かろうじて誉められたものといえば、有名百貨店部長の肩書きだったが、それももう自分にはない。 ちら、と横目で『人』を見ると、安藤は腹を決めた。そう、失うものなど残っていない。ドン・キホーテじゃあるまいし、勝ち目のない相手にたちむかうなんてことがいまさら自分に起こるなんて、毛頭考えていなかったことではあるが。 おもむろに『人』に近づくと、隠しスイッチの電源を入れた。 |