触れたら。
触れたらすべてが壊れるか。
ソファで眠る彼のその長い睫毛。細い肩のラインに沿って流れる髪。陶磁のような頬に不必要なほどに紅い閉じた唇。
…触れたい。
渦を巻く欲望の存在を既に誤魔化しようもなく知っている。
悪いか。
悪いのか。
欲望を抱くことがそれほどに醜いか。
そもそも自分は誰にいいわけをしているのか。
瞬にか、それともかつての自分にか。
何を欲さずとも生きていけると豪語したあのころの自分にか。
混乱のさなかに在って答えなどは無論出ず。
そもそも何故申し開きを希むのかさえ考えるだに可笑しすぎて。
現在此処が底辺か。それともまだこの先があるのかすらも解らずに。
ただ目が眩むほどの暗黒の裡にあるのなら、結局欲する対象こそがその闇の正体かとすら思う自分がまた更に可笑しい。
とんだ責任転嫁だ。
彼に罪はない。筈だった。が。
しかしそれならば何故自分がこのような場所を這いずり回らねばならないのかがわからない。
もしかして彼のこの存在こそが堕天そのものか。
皓眩なる天のものすら引き寄せ地の底へと墜とし込む、抗いようのない絶対の重力。
それなのか。
触れたい。
この手を伸ばしたなら。
その髪を服を皮膚をとおりこしてそのさらに奥深く。体の芯をつかむように。正体のわからないところまでずぶずぶと自分の腕はどこまでも引きずり込まれてゆくのではないかというわけの解らない恐怖と陶酔にも似た感覚が心の奥で並び立つ。
その体温を。流れる血のその流れる道筋をこの手で掴みたい。実感をもって。
自分の手の中にあると、そんな確信を持ってみたい。
その目が開かないことを望んでいる。
自分のほかの誰をも見るなと。
視界に誰も入れるな。
欲望は果てしなく限りなく。
気狂いの所行だ、と眠る瞬を見下ろし自嘲する。
手に入れ得るもの。
皮と血と脳味噌と思考と体温と目とあとは何だ。
結局、人が人ひとり奪い尽くすことは可能か?
あるひとりの人間という現象。その現象のすべてをこの指で握り潰すことが可能なのか?
彼の意志。つくりあげるもの。人の心に残す影響。ただ息をするだけで。増大してゆく「彼」という現象のすべて。
決してこれを思い通りにすることなどかなわない。
どんなに深く彼のすべてを理解しようと願ってもその希みは叶わない。
真に望んだもの。
それは自分と瞬、それだけで完結する世界。
だれひとりこれを傷つけることはかなわず。
彼がのぞまぬものはこの世に存在を許さない。
自分は騎士にでもなりたかったのか。
ふたりきりの世界にうまれなおしたい。
それがかなわぬなら檻にでも閉じこめて。
自由を奪い枷をつけて。
その手足に枷を。
枷。
そう、この手を枷として。
掴んでいたかった。
全身を。
動けないほどに。
どうしたら、そうやって掴める。
この手は二本しかない。この腕は。
なのに動けないほどに。
しっかりと。
その存在を掴みたいと願う。
───瞬。
…そう。
何をしたかったのかが解った。
俺は。
瞬を抱きしめてみたかったのか。
しかし現実は自分は彼に触れることすらできず。
その眠りを妨げることなど論外で。
ああもしかしたら永遠に。
その髪に触れることすらもかなわない。
意気地なしと。
笑うなら笑え。
どうにもならない。
結局のところ。
その瞳が笑むのだけを待ち望み。
その声が遠く微かにでもいい、どこかで必ず聞こえていることだけを望み。
ただ自分の運命が彼のそれに寄り添うようにと。
神にすら祈る。
ほかにはどうにもならない。
───笑え。
欲望に捕らわれた哀れな俺の姿を。
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