ばたん、と大きな音を立て扉が閉まった音を氷河は台所で聞いていた。ああ、瞬が帰ったなと思い、おかえり、とひとこえ投げた。
 しかし、いつもなら明るい声でただいまと言いながら入ってくるはずの姿がいつまでたっても見えないので、不審に思って氷河はガス台の火を止めて玄関へ出た。
 玄関には、濡れねずみと化した瞬が、左手に大切そうにケーキの箱を持って、しかし心がどこかへ飛んでいってしまったような表情で立ち尽くしていた。
「瞬?」
 氷河が近づくと、瞬が顔を上げた。
 それは泣き出す寸前の子供の表情に似ていて、氷河は驚いた。
「どうしたんだ、瞬?」
 氷河の声に、瞬は首を振った。
「…なんでもないよ。なんでも…」
「なんかあったのか?」
 心配そうに氷河が尋ねた。
 ううん、と再度首を振りながら、瞬は先ほどの老婆の言葉を思い出していた。
 ───自分を愛する者を必ず喪う運命にある、という。
 言葉を。
 
 氷河。
 まさかこのひとを、喪うことがあるのだろうか。

 今まで考えてみたこともなかった。
 自分が死ぬまで一緒にいるのだと、いつのまにか思っていた。
 けれど。
 普通の人間ですらなかなか叶わないそのようなことを。自分たちのような人種が信じていられる方が奇跡に近いことではなかったか?
 瞬はぎゅっと右手を握りしめた。てのひらに爪が食い込むほど強く。

 このひとが。
 いなくなったらどうしよう。

 握りしめた手は白く色を失い、小刻みに震えていた。
 食い込んだ爪が痛くないわけがなかったが、その痛みがなければまた正気でいられそうにもなかったのだ。
「瞬?」
 氷河が心配そうに顔をのぞき込む。
「おまえ、どうした?」
 瞬は見上げた瞳を細めた。なんでもない、ともう一度言おうとして、しかし口を開けば涙がこぼれそうだった。目を閉じ俯いて右手で乱暴に長い髪を掻き上げる。
「ごめん。なんでもない」
「瞬」
「…何でもないんだ、本当に」
 そう言いながら頑なに首を振る瞬を見下ろしていた氷河は、その両の腕を瞬の背に回し引き寄せた。
「……」
 瞬はその腕の中、更にきつく目を瞑り、深く息を吐いた。
 どうかしている、と自分でも思わずにいられなかった。
 たかだか占い師の言うことに、これほどに翻弄されて。
 そんなにこのひとを喪うことが怖いのか。
「…氷河」
 瞬はそっと氷河の体を離した。そして彼を見上げ小さく微笑む。
「…ごめんね、大丈夫」
「…ああ」
 とりあえずいつもの表情に戻りつつあるのを確認して、氷河も安心したように軽く笑った。
 降り始めた雨に瞬はずぶぬれになっていたが、その瞬を抱きしめた氷河の服も湿気ってしまっていた。
「とりあえず着替えた方がいいな。いくらそう簡単に風邪などひかないとはいっても」
「…うん」
「風呂沸いてるから。先に入るといい」
 氷河はまだぼんやりしている瞬の左手からケーキを取り、奥へ行ってタオルを持ってきて瞬の頭に乗せた。
「ほら、体が冷えきる前に」
「…うん」
 瞬が頷いた。






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