その日の夕食時のことだった。
 この家にいる以上、夕食は全員顔を合わせて、というのがいつのまにか決まりのようになっていた。
 現在屋敷に残っているのは沙織と氷河と瞬の三人。
「それでどう?決心は付いた?」
 瞬に向かいそう唐突に切り出した沙織に、氷河が怪訝そうな顔を向けた。
「決心?」
「…うん、まだ…」
 瞬が曖昧に答えた。
 氷河が瞬と沙織を交互に見て言葉をかさねる。
「決心て何の」
「うん、なんていうか…」
 瞬は何故か言い淀んでしまい、かわりに沙織が答えた。
「瞬にね、聖域に守人として行って欲しいと相談していたのよ。見張りのようなものなのだけれど」
「聖域に?」
 氷河の声に、正方向に向いたものでないベクトルのものが微妙に混入した。
「おまえ、ここを出るの?」
 氷河が単刀直入に聞く。
「だからまだ…」
 はっきりと答えることができない。
 瞬にはわかっていたのだ。
 なぜ彼が故郷にも帰らずここにいるのかを。
 故に自分が先にここを出ていくことが裏切りのように思えてもいたし、自分がここを出るならば氷河は北の大地へかえってしまうであろうことも知っていた。
 自分がいるから、彼はここにとどまっているということを。
 いつの間にか、何も言われずとも、確かな実感を持って知ってしまっていた瞬だった。
「わからない」
 短く瞬はそう答えた。
「わからないっておまえ、自分のことだろう」
「でもわからないんだってば」
 わからないのはここを出ていくのかそうでないのか、だけではなく。
 いろんな物事の正体が最近よくわからない。
 どうしてここを離れたくないのか、ということに始まって。
 どうして彼と一緒にいたいと思うのか。
 彼と一緒にいる自分を幸せだと感じるのか。
 一体自分は何なのか、そして彼は何なのか。
 彼に対して抱くこの気持ちをなんと呼ぶものか。
 わからないことばかり。
「はっきりしろよ、おまえがここを出るなら俺は帰るからな」
 少し怒ったような声で氷河が言う。
 沙織はなにやら悟ったような顔つきでひとり食事を続行していた。
「何で帰るの」
 氷河の声が荒いだせいか、瞬の言葉にも棘が混じり始める。
「別に帰りたいから帰るんだ」
「ふぅん」
「おまえも好きにするんだから俺だって当然好きにするさ」
 そうして続いた棘と氷の応酬。の、後。
「じゃあ帰ればいいじゃない」
 不意にそんな言葉を吐いた瞬が、自分の言葉に驚いたように動きを止めて氷河を見た。
「……瞬?」
 瞬は無言でただ瞬きを繰り返す。
 空白の時間が、流れ。
 そして長く感じられた沈黙の時間のあと。
 瞬の口からこぼれた言葉は、意外なものだった。
「…帰ったら嫌だ」
 意地っ張りな瞬が言うとも思えないひとことに、氷河はもちろん、我関せずでひとり食事を続けていた沙織までもが目を見張った。
「やっぱり嫌だ…ひとりで聖域に行くのも、氷河が帰っちゃって会えなくなるのも嫌だ」
「瞬」
 彼がいなくなる、それは瞬にとって恐怖感に結びつくものだった。
 何故そんなふうに思ってしまうのかはわからない。
 けれど。
 帰ってしまえばいい、その言葉を自分で発したときにわかってしまった。
 彼が、失いえぬものだということが。
 わかってしまったのだった。
「わからないことだらけで。だけど君がいなければ嫌だとか、会えなければ淋しいとか、そのくらいのことはわかってるよ…」
 いきなり素直になった瞬に、二人は驚きを隠せないままつづられるその言葉をただ聞いていた。
「何がなんだか全然わからないままで、それでも目の前に、君がいない毎日がくるのが嫌だ」

 帰ればいいじゃない、なんて。
 よくこの口からそんな言葉が出たものだ。
 離したくなかったんだ。
 ただそれだけで。

「一緒に行きたい」
 瞬が氷河をまっすぐに見て言う。
 そう、素直になってみれば一番大切なことが言える。
 きっとそういうことが必要なときがこの世界にはあって、それを逃したときに、ものを失ってしまうのかも知れないと瞬は思った。
「氷河と一緒に行きたい。そうじゃないなら行けない」
 きっぱり言い切った瞬に、沙織が苦笑と共にため息をついた。
「…いいわよ、一緒に行ったらいいわ」






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