その夜。

「瞬。これを飲んでみろ」
いつも通り氷河の部屋にやってきていた瞬に、氷河はその薬を手渡した。

「え? 何の薬?」
ピンクのチューリップの蕾が陽光を求めて太陽のいる方向を向くように、瞬が首をかしげてみせる。

「あ……いや、その……気持ち良くなる薬だ」
「気持ちよく? ふうん」

瞬は、純真である。
瞬は、人を疑うことを――もとい、氷河を疑うことを知らない。
以前は知っていたのかもしれないが、今の瞬は氷河を信じきっていた。


瞬が、“気持ちよくなる”の意味を、どう解釈したのかは氷河にはわからなかった。
氷河は瞬に尋ねもしなかったのである。
彼の知りたい真実はそんなことではなかったから。

で、瞬の喉がこくりと小さく動いて、その薬を飲み込んだのを確認するや、氷河はいつになく緊張して瞬に尋ねてみたのである。
彼が、得体の知れないロボットの力を借りてでも知りたかった“真実”を。

「瞬。おまえが毎晩俺のところに来るのは、おまえが俺を好――」

大切な重要な深刻なその質問を、しかし氷河は突然遮られた。
他ならぬ瞬の声によって。

「……氷河」
平生の瞬らしからぬ低い声。

深く俯いているせいでその表情を確認できない瞬に、氷河は震える声で、再度尋ね返したのである。
「な…なんだ?」

次の瞬間、瞬がぱっと顔をあげる。

そして、彼は氷河にマシンガントークを炸裂させた。

「なーに、とろとろしてやがるんだよ、このノロマ野郎が! おらおら、とっととこっちに来やがれ。時間がもったいねーだろーがっ! 今日も根性入れて頑張れよ。手ぇ抜きやがったら、ただじゃおかねーからなっっ!」


「…………」


「ったくよぉ。テメーはほんとに気のきかねー男だよなぁ、実際。毎晩毎晩、恥ずかしげもなく、くっせーセリフ吐きやがってよ! んなセリフ吐くのはよ、2、3回いい仕事した後で十分なんだよ! え? テメーだってほんとはそうしてーんだろ? ほんとは、やらせてもらうためにいちいちあんなくっせーセリフ吐くのなんかメンドーで仕方ねぇって思ってるんだろ? え? 正直に言ってみろよ、こらぁっ!!!」


「…………」


瞬のその強烈なマシンガントークに、氷河は――氷河の頭は真っ白になった。
頭どころか目までが白目をむくことになった。

これが――これが、
『瞬、××を○○で△△してみろ』
と命じると、
『え…そんな□□なこと、僕……』
と、いつも(いったんは)可愛らしく恥じらってみせていた瞬の言うセリフだろうか。
氷河の驚愕は尋常のものではなかった。

が、その氷河よりも当の瞬こそが、自分の口をついて出たとんでもない言葉に衝撃を受けていたのである。
瞬は、自分の言葉に驚いて両手で口をふさいだが、そのマシンガントークは止まらなかった。

「なーに、ぽけっとしてやがるんだよ、このうすノロ! さっさとこっち来て、やることやりやがれ。てめー、まさか焦らしていじめてやろうなんて、くそ生意気なこと考えてやがるんじゃねーだろーなっっ!?」


かつて一度たりとも使ったこともない乱暴な言葉が口をついて出るのに、そして、その言葉を止める術を見つけられずに、瞬は涙を零し始めていた。
眉根は切なげに歪み、頬は青ざめ、マシンガントークをかましているその唇ですら血の気を失っている。
マシンガントークを止められないまま、瞬は激しく横に首を振り、そのせいで涙の雫が飛び散った。


氷河は――氷河には、瞬のその豹変振りも言葉の内容も信じることができなかった。

だから、彼は信じなかったのである。
万が一、それが瞬の真実の思いなのだとしても、瞬にこんなにも辛い涙を強いる真実は要らない――と、彼は思った。
真実を婉曲というオブラートで包むこと、あるいは決して口にしないこと――それは、偽りとは違う。
それは、人が人を傷つけないための高度な技術であり、知らせないことで人を幸福にする思いやりであり、誰にも苦痛を負わせることなしに目的のものを手に入れようとする、ある種の優しさでもあるのだ。

氷河は、瞬にそれ以上何も言わせないために、しっかりと瞬を抱きしめた。


「い…いや……。僕、こんなこと思ってない……。こんなこと……だめ、こんなこと言ったら、僕、氷河に嫌われちゃう……っ!」

薬が切れたらしい瞬を、自分の腕の中に閉じ込めて、氷河が瞬に囁く。

「大丈夫。俺はおまえを嫌ったりしない。おまえの言うことなんか、俺は信じないからな、瞬」


しゃくりあげ続ける瞬の背と髪を撫でながら、氷河は、“真実の無価値”という新しい概念を、その胸に刻むことになったのだった。






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