『その男の命を救いたいか』

死に瀕している氷河と瞬だけしかいないはずの天秤宮に、突然、何者かの声が響く。
それは、もしかしたら、“声”と言えるものではなかったかもしれない。
その問いかけは、瞬の五感を無視して、瞬の中に直接響いてきた。

「誰?」
瞬もまた、自分が“彼”に、声に出して問うたのか、あるいは、そう思っただけだったのかが、わかっていなかった。

男のものとも女のものとも判別できない思念――おそらく――が、瞬に答えてくる。
『さて――。神と呼ばれるもの……かな』

「神……? 僕たちを創ったもの?」
『違う。私は創造神ではない。ただ、人よりは遥かに長い時間存在し続け、人より遥かに強大な力を持っているだけのことだ』

そんな“もの”が自分に話しかけてくる不思議を、瞬は怪しみもしなかった。
死を覚悟した人間の前で、謎や怪異は、不思議でも奇異でもない。

「強大な力?」
その返答を聞いた瞬が考えたことは、“彼”の持つ力は氷河を助けられるほどのものなのだろうか――ということだけだった。

『まあ、ささやかな力だがな。私には、人の心を変えることはできぬ。実体も持たぬから、小石ひとつ動かすこともできない』

物理的な力など、この場では無いに等しい。
そんなものでは、氷河の命を救うことはできない。

それは瞬にもわかっていた。

氷河を救うことのできる力――カミュの小宇宙を打ち消すことのできる力――は、しかし、おそらく、小宇宙ですらない。
では、その力はいったい何なのか。
その答えを自身の内に探している時間は、瞬にはなかった。

氷河の身体は、氷の棺から解放された今も冷え続けている。
氷河の身体は、どんどん死に引き寄せられていた。

助けたい――。

彼の母親が、その命を捨ててまで守り抜いた命――氷河には生きる価値があるのだと、自分より生きる価値があるのだと、瞬の中にある幼い頃の記憶が、瞬に訴え続けていた。
カミュの、彼の母親とは全く逆の方向に向かった、強大とはいえ間違った力のせいで、氷河が死んでしまってはならないのだ。

それは、彼の母親の愛を冒涜することになる。

助けなければならない。
それだけが、今の瞬の望みだった。





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