ただひとり、王の心を自在に操れる者として、瞬は王宮内に確固とした地位と立場を築いていた。
瞬は、王宮を自由に歩くことができ、誰も瞬の行動を妨げることはできなかった。

瞬は皆に怖れられていたのである。

専制君主を戴く帝国の臣下として、それは当然の対応だったろう。
彼等はむしろ、瞬に心惑わされている氷河が失策に及ばないことの方を訝っていた。



「瞬様」
瞬が、王宮の誰もいない廊下で、彼の故国の宰相だった男に会ったのは、かの国が滅びてから半年も経った頃だった。

今は帝国の閣僚のひとりとして登用されている男は、かつての主君の血を引く王子に、深々と頭を下げた。
「私をお恨みでございますか」

瞬が氷河の帝国に最後まで逆らい続けた国の王子だということを隠すために、彼を王宮の家令に仕立てあげる策を思いついたのは、彼だった。
逃亡は、かえって瞬に危険と苦難をもたらすだろうと、彼は考えたのである。

「……僕が恨んでいるのは、あなたじゃない。もっともらしい大義名分を掲げて、僕の国を滅ぼし、僕から家族を奪ったあの男だ。そんな男にいいようにされながら、両親の後を追うこともできずにいる僕自身だ」
瞬が、この王宮での初めての声を発する。
その声は怒りに震えていた。

「復讐をお望みですか」
「望んではいけないとでも? 父と母を奪っただけじゃない。あの男は、僕を――僕をすっかり変えてしまった。あの男は……!」

瞬の国は、ほんの50年前に興った歴史の浅い小国だった。
それでも瞬は、生まれた時から王子であり、そのように育てられた。
今の自分の境遇は、彼には受け入れ難いものだったのだ。

「――今、陛下は、瞬様に夢中です。瞬様は、その気になれば、陛下の失政を誘うこともできましょう」
「……陛下と呼ぶのか、あの男を」
「……世は平和になり、民衆は陛下の支配を喜んでおります」
「…………」

それは、瞬にもわかっていた。
わかっているからこそ、瞬は、毎夜、氷河の寝首を掻く機会を与えられていながら、そうすることができずにいたのである。

「私は今は、陛下の家臣です。民のために勤め、やり甲斐のある仕事を与えられて、満足しております。他の臣下も国民も同様なのです」
「…………」

氷河がもっと冷酷で残酷な王だったらよかったのに――と、瞬は思っていた。
夜ごと、瞬の中で嵐を静め、『愛している』と囁き、『笑ってくれ』と懇願する氷河に、為政者としての道を誤らせることは、瞬にはできることではなかった。
それは、せっかく平和の訪れたこの大陸に、再び戦乱を招くことなのだ。

「僕はただ、性急な侵略ではなく、時間をかけた話し合いで――支配と服従じゃなく、友好で、二つの国が並び立つこともできたはずだと思うだけだ。そうすれば、僕の両親や国の兵たちの血は流れずに済んだはずだ」

「……陛下は、疲れ果てている民のために、急がねばならなかったのです」
宰相は、あくまでも、氷河の肩を持つ。
彼が、今ではすっかり氷河の臣になってしまっていることを、瞬は知った。

「瞬様の理想は素晴らしい。美しいものでもあります。ですが、理想というものは、過去ではなく未来に向けて思い描くもの。今の瞬様の王への影響力は、いにしえの傾国の美女たち以上のものがありましょう。かの美女たちのように、瞬様は、王に復讐し、この国を滅亡へと導きますか」
「…………」

そんなことができるはずがない。
できないことは、瞬にもわかっていた。


「でも、僕は笑えない」

瞬は諦めたような目をして、哀しく呟いた。





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