船は、冷たい北の海に沈みかけていた。 船上から、最後の救命ボートが海に下ろされようとしている。 「お願い、この子を乗せて!」 既に定員に達しているそのボートの操舵を任されていた船員は、若い母親の哀願に一瞬躊躇を覚えたようだった。 が、彼は、すぐに、 「子供だけなら」 と、彼女に告げた。 それだけで、彼女には十分だったらしい。 神の恩寵に感謝するような眼差しを、彼女はその若い船員に向けた。 だが、母と引き離されることを察した幼い子供にとって、それは恩寵でも慈悲でもなかったのである。 「マーマも!」 悲痛な目をして訴える自分の息子に、彼女は微かに横に首を振った。 「ボートにはもう一人しか乗れないの。いいえ、本当はもう誰も乗れないのよ」 「マーマも一緒じゃなきゃ嫌だ」 「マーマは氷河と一緒には行けません」 「じゃあ、僕もここに残る」 「我儘を言って、マーマを困らせないで」 これは我儘だろうか。 氷河には、どうしてもそう思ってしまうことができなかった。 「ボートに乗らなかったら、マーマは死ぬ」 「……そうね。氷河は一人で生きていかなければならなくなるわ」 「一人で生きてたって、いいことなんかない」 「そんなことないわ」 「絶対にない」 ないに決まっているではないか。 自分を愛してくれる唯一人の人を失って、人が幸福になれるはずがない。 「そんなことはありません。きっと、生きててよかったと思える時がくるわ」 「くるもんか」 父のいない子を産み育てている母に、これまで、誰かが優しい言葉をかけてくれたことは一度としてなかった。 氷河を優しく抱いてくれるのも、母ひとりだけだった。 その母を失うのである。 生きていることが死よりも価値あることだという幻想に、母は囚われているのだと、氷河は思った。 だから、母はそんなことを、何の根拠もなく無責任に言ってしまえるのだと。 「必ず、きます!」 氷河の、半ば諦観を伴った思いを知ってか知らずか、彼の母親は、いつになくきっぱりと言い募る。 「もし、氷河にその時がこなかったら、マーマは何のために氷河を産んだの。何のために氷河を育ててきたの。氷河は必ず幸せになるのよ。きっと……きっと、氷河は世界一幸せになれるわ」 それは叶うことのない夢にすぎないと、氷河は思った。 だが、氷河は、いつものように、母への反駁の言葉を喉の奥に押しやった。 この悲しい女性の悲しみを更に深くすることはできない。 彼女の希望や夢を一身に引き受け、否定しないことで、氷河は、幼い息子以外に愛するもののない彼女の人生を支えてきた。 その必要がなくなるのなら、氷河にとって、死は甘美な誘惑でさえあった。 生きることをやめてしまえば、氷河は、二度と、彼女の涙や寂しげな微笑みを見なくて済むようになるのだ。 |