そこが、母に教えられた日本という国のどこかにある建物だということは確かなようだった。
氷河が連れていかれたダイニングテーブルに並んでいたのは、ミソシルやツケモノではなくスープやパンだったが、そこで氷河たちの給仕を務める使用人らしき者たちが使っている言葉は日本語だった。

自分がなぜそんなところにいて、見知らぬ人間たちと食事をしているのか――氷河が、真剣にその事実を怪訝に思い始めたのは、テーブルの上のベーグルサンドを3つも平らげてしまってからのことだった。

誰かが自分に魔法をかけたのだという、現実味のない結論をしか、氷河は手に入れることができなかったが。


「それで、君の名前は、何ていうの?」
瞬が、性懲りもなく、氷河に名を尋ねてくる。

意地でも無礼な男と同じ名前を名乗りたくなかった氷河は、昔ラジオで聞いたことのある物語の登場人物の名を口にした。
「……スメルジャコフ」
「スメルジャ……?」

瞬が、耳慣れない名前を反復できずにつかえていると、横から、氷河の名を盗んだ男が、不愉快そうに口をはさんできた。
「どこぞの私生児の名前だな。ガキのくせに、つまらないことだけ知っている奴だ」

「え?」
「ドフトエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だ。実父を殺す私生児の名」
「ああ……」

無礼な男の説明を聞いて、瞬は、氷河の偽名の出典を思い出したらしい。
よりにもよってその名を選ぶ“子供”に、瞬が切なげな視線を投げてくる。
しかし、瞬は、すぐに気を取り直したようだった。
「アリョーシャにしよう、本名を名乗りたくないのなら」

カラマーゾフ3兄弟の、誰からも愛される善良な三男の名を口にした瞬に、無礼な男が物言いをつけてくる。
「アリョーシャはおまえだろう。こいつは、イワンだよ」

神に反抗する次男の名を、瞬は即座に却下した。
「やだ。イワンって言うと、『イワンのばか』を思い出しちゃうんだもん」

氷河からすれば馬鹿げた理由で無礼な男の提案を一蹴した瞬が、拗ねたように口をとがらせる。
その声と仕草には、妙な甘えが含まれていた。

それで、氷河は、この二人が“特別に仲のい”二人なのだということに気付いた。
――不愉快だった。


「ロシアの子供は、3人に1人が婚外子だ。私生児だってことは珍しくもないし、自慢にもならない。覚えておけ」

氷河の不快を、無礼な男が倍増しにする。
氷河は、なぜか、自分のとりえを否定されたような気分になった。





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