パジャマ代わりの瞬のトレーナーの胸ポケットには、クマの顔のアップリケがついていた。

「ねえ、アリョーシャ。君にとって、人を信じるってどういうこと?」
長すぎる袖を丁寧に重ね折りしながら、瞬は氷河に尋ねてきた。

「信じたことがないからわからない」
「誰も信じたことがないの?」
「マーマだけ」
「どうしてマーマだけは信じられるの?」

「え……?」
氷河は、これまでただの一度も、そんなことを考えたことがなかった。
リビングルームのホットカーペットの上にぺたりと座り込み、氷河は口許を引き結んだ。

『マーマだけは別』という気持ちは、いったいどこから生まれてきたものなのだろう。
だが、それは――母だけは信じられるという思いは――いついかなる時も氷河の胸の中にあり、一瞬たりとも、その胸の中で揺らいだことのない確信だった。

瞬に答えられずにいる氷河に、瞬は、また、あの微笑を向けてきた。
「そうだね。確かに、人は、人を信じなくても生きていける」

「…………うん」
瞬の言葉と笑顔が、氷河に違和感を感じさせる。
氷河は、瞬がそんなことを言う人間だとは思っていなかったのである。
瞬は、聖書にある言葉を無条件に受け入れてしまえるような――つまりは、裏切りや不幸を知らない幸運な人間なのだろうと、氷河は思っていた。

「普通はね、人が人を信じるってことは、相手が自分の期待した通りに動いてくれるのを期待することなんだよ。そうしてもらえないと、人は裏切られたって感じる」

瞬が、氷河の正面に座り込む。
氷河は、瞬の顔を上目遣いに覗き込んだ。

「あのね。人は大抵、善良だよ。いい人が多いの。誰も、誰かを裏切りたくないって思ってる。優しくしたい、力になってあげたいって思ってるの。でも、そうできないこともある。でも、それは力不足にすぎないの。裏切りじゃない」

瞬がそんなことを語り出したのは、無礼な男の差し金なのだと、氷河は思った。
途端に、氷河の中に、反抗心が生まれてくる。
「意図して裏切る奴もいる」

「それは、その人にとって、君がその程度の人間だったからだよ。君の期待に添えなくてもいいって思える程度の。君自身の責任だよ」

「瞬、きついぞ。もう少し、優しく言ってやれ」
案の定、無礼な男が、横から口をはさんでくる。

しかし、瞬は、きっぱりと、金髪男の差し出口を振り払った。
「僕は、一生懸命な相手には、真摯な態度で臨むことにしてるの。この子は理解できる子だよ。聡明な目をしてる」

瞬は、そして、再び氷河に向き直った。

「そうだと思わない? 道で擦れ違っただけの、自分には何の価値も意味もない人の期待に、命懸けで添ってやりたいと思う人はまれだよ」

「…………」

「結局、人が人を信じられるかどうかって、自分が自分をどう思っているかなんだよ。自分がその人にとって何らかの価値があると思えば、その人が自分のために努力してくれるだろうって思うことができるでしょ。その結果がどうだったって、裏切られたとは思わない。きっと頑張ってくれたんだろうな……って思うだけ」

瞬は、無礼な男への宣言通りに、真摯な目をしていた。

「周囲の人に冷たくされた? 君は、君に冷たくした人たちに、何か働きかけたの? 信じて欲しいって訴えた?」

そして、無礼な男が言うように、瞬の言葉はかなり辛辣だった。
不思議な色をした瞳の奥には、ひどく優しい色が見てとれるというのに。

「そして、これがいちばん大事なこと。君自身は、彼等に何かしてあげた? 自分が何もしてないのに、相手から優しくされることだけを期待するのは、信じてるってこととは違うんだよ。自分では何もせずに、他人を信じられないなんて言う人はね、ただの怠け者なの」

「瞬! こいつはまだ6つにもなっていないガキで……馬鹿なんだ。もう少し――」
無礼な男は、なぜか氷河の歳を知っていた。

「自分がその程度の人間だって思うことは辛いことでしょ。でも、それは事実だし、人を信じないって言っている人は、そう言うことで自分自身を傷付けているんだよ」

瞬は、だが、氷河を大人として扱おうとしているようだった。

「自分に自信満々でいる人は少ない。でも、人は誰かを信じたいって思う。それは、信じられたいと願うことと同じで、自分に自信を持ちたいって思ってることと同じ。そのために努力している人の方が、僕は好きだよ」

瞬にそうしてもらえることが、氷河は嬉しかった。
そして、ひどく辛かった。
瞬に――ただの怠け者だと断じられるのは。

瞬に、優しく接してもらえないのは。


「だ……って、おまえは、俺に優しくしてくれた。俺は、おまえに何にもしてやれないって言ったのに。俺は……俺は……おまえを信じちゃいけないのか?」

ふと気付くと、氷河はべそをかいて、瞬に訴えかけていた。
自分が瞬を信じたいと思い始めていたという事実を、氷河は初めて自覚した。

「君は、僕に──」
氷河の切なげな訴えを聞いた瞬の表情が、急に和らぐ。
「君は、僕に、いつも、助けて……って言ってたよ。寂しいから、助けてって、いつも一生懸命言ってたよ」

瞬の声が、眼差しが、手が、優しく氷河にまとわりついてきていた。

「君があんまり必死だから、君の目があんまり必死だったから、僕は──そうだね、感動したの。好きになったの。優しくしてあげたいって思ったの」

その心地良さが、氷河から、虚勢を張り続けるための力を奪い取っていく。
瞬は、自分を受けとめ、抱きしめてくれるだけの力の持ち主なのだということが、氷河にはやっとわかった。
瞬の前でなら、自分はただの子供でいていいのだ――と。





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