「瞬。行くところは――身を隠すところが、おまえにはあるのか」
「…………」

返事のないことが、瞬の答えだった。
家は売り払い、証拠になるようなものは全て処分したあとなのだろう。
瞬の父が贋作を売って得た金が残っていたにしても、手をつける気にはなれずにいるに違いなかった。


「俺を好きだというのは本当か」
「……信じてくださいと言う権利は、僕にはないんです……」

情状酌量を乞うわけにはいかないと、瞬は考えているらしい。
氷河は、だが、幸いなことに、瞬ほど潔癖な人間ではなかった。
人を幸せにできない法に、瞬を委ねるつもりなど、彼には全くなかったのである。

「信じるなと言われても信じる」
氷河が瞬を抱きしめる。

瞬は、氷河の意図を察し、彼の腕の中で、氷河の優しい不正に――否、甘い不正に――身を委ねてしまっていいのかどうかを迷っているようだった。
しかし、絵から抜け出てきた泥棒は、既に氷河の仕掛けた罠にはまり――恋に落ち――身動きのできない状態になってしまっていたのである。

「僕は……祖父の絵も父の絵も好きだった。ううん、祖父も父も好きだった。僕は、祖父と父の、絵と人に対する態度があんまり極端だったから、絵を描くには人を拒んで絵だけに没入するか、人を愛して絵での大成を諦めるか、その二つしかないのだと思い込みかけていたんです……」
解放してもらえない氷河の腕の中で、瞬が呟くように言う。

「でも、氷河は、祖父も人間を愛していたのだと言ってくれた。人を愛するのに、1つの正しい道だけがあるわけじゃないと、僕に教えてくれた……」
「…………」

氷河としては、そんな大層なことを瞬に示唆したつもりはなかったのだが、彼はこの幸運な誤解を解く気にはなれなかった。

「嬉しかったんです、僕……」
氷河に抱きしめられたままで、氷河を見上げた瞬の瞳は、やっと自分を偽らずにいられる場所に辿り着けたと言うかのように、氷河への信頼に満ちていた。
それでいて、その眼差しには、氷河を誘う花の風情がある。

これはどうあっても、死ぬまで誤解を解くわけにはいかなかった。

「おまえも絵を描くのか?」
そんなどうでもいいことを尋ねながら、氷河の手は速やかに瞬の秘所に伸びていた。






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