氷河がその足でラウンジに入っていくと、そこには瞬がいた。 瞬と、紫龍が、他愛のない言葉のやりとりを交わしていた。 白々しいほど何食わぬ顔を、平気で瞬に向けているその男に、氷河は神経を逆撫でさせられたのである。 「瞬っ、そいつから離れろっ!」 氷河の怒声に驚いた瞬が、瞳を見開く。 「氷河……? どうしたの」 「離れろと言ったのが聞こえなかったのかっ!」 「氷河、いったい紫龍がどうしたっていうの」 紫龍が“どうした”のか、そんなことを言葉にできるわけがない。 というより、氷河は、その汚らわしい裏切り行為を口にするのが嫌だったのである。 そんなことをしたら、自分までが汚れてしまうような気がした。 だから、氷河は、瞬には何の答えも与えずに、つかつかと紫龍に歩み寄り、彼を殴り倒したのである。 この男だけは、馬鹿げた聖闘士の技などではなく、生身の拳で殴り殺してやらなければ、気が済まない。 済みそうになかったので、氷河はその通りにした。 殴り倒しては引きずり起こし、再び殴り倒すことを、氷河は無言で幾度も繰り返した。 紫龍は、なぜか無抵抗だった。 「氷河っ、やめてっ」 無抵抗の紫龍の代わりに、止めに入った瞬の手も、氷河は振り払った。 「氷河、どうしたっていうの。落ち着いてよっ」 「うるさいっ! 邪魔をするなっ!」 なおも仲間同士の争いを――と言っても、氷河が一方的に紫龍を殴りつけているだけだったのだが――止めようとする瞬を、氷河は突き飛ばした。 「氷河……」 瞬が、氷河のその振舞いに傷付いたような顔をする。 その様を横目に見た紫龍は、初めて氷河の拳を自分の手で受け止めた。 そして、彼は、まるで挑発でも仕掛けるように、氷河に言ったのである。 「俺が瞬をいただいたらどうだというんだ。貴様には関係のないことだろう」 その傲慢な言い草に、氷河は、再度、白くなるほどにきつく拳を握りしめた。 そして、瞬が――瞬は、紫龍のその言葉を聞いて、きょとんとしていた。 瞬にはそれは、冗談にしても悪質な――つまりは到底信じられないことだったのだろう。 この瞬の信頼を、紫龍は裏切ったのだと思うと、これ以上高まることはないだろうと思っていた氷河の中の憤怒は、ますます激しいものになっていった。 「関係ないだとっ !? 瞬は俺たちの仲間だぞ、それを貴様は……!」 「瞬だって、本当に嫌だったら、俺を撥ねつけることくらいできていただろう」 「瞬が人を傷付けるのが嫌いなことは、貴様も知っているはずだ!」 それを逆手にとって、この外道は、まさに人倫にもとる行為をしてのけたのである。 怒りに震える氷河に、しかし、紫龍は、嘲るような笑みを投げてきた。 「瞬なら、傷付けなくても、俺の自由を奪うことはできたはずだ。瞬も嫌じゃなかったんだよ」 「黙れっ!」 「冷静になって考えろ。瞬が本当に嫌だったのなら……」 「黙れ、黙れ、黙れっ! たとえ瞬が望んだことだったとしても、俺が許さんっ」 「貴様に許してもらおうとは思わん。瞬がいいと言ったんだ」 「瞬がそんなことを言うはずがない!」 「そんなことを勝手に貴様が決めるな。どうして、ないと言えるんだ」 「それは……」 その先を言い澱み、氷河は、紫龍の襟首を掴みあげたまま、初めてまともに瞬の顔を見やった。 瞬は、今にも泣きだしそうな顔で、諍い合う仲間たちを見詰めていた。 「それは、俺が瞬を――」 自分が瞬を好きだから、瞬がそんなことを言うはずがないというのも、筋の通らない理屈である。 氷河は瞬に好きだと告げたことも、告げられたこともない。 ただの一度も、なかった。 ただ勝手に、そうなのだと思って――否、期待していただけだった。 「おまえが瞬を? 何だというんだ」 すかさず、紫龍が、氷河の無言の隙を突いてくる。 「うるさいっ! 俺がどうだろうと、そんなことはどうでもいいんだ! ただ、貴様だけは許さな――」 言い終えるより先に、氷河は再び拳を振りあげていた。 その氷河の拳が、突如室内に湧き起こった激しい空気の流れに自由を奪われる。 瞬が――今は、紫龍がどれほどの卑劣漢なのかを知ったはずの瞬が――氷河の動きを封じていた。 |