自社ビルの最上階から1階のロビーに降りていくと、まだ車の用意が整っていなかったらしく、秘書が受付の前で慌てていた。 その不手際を怒りもしなければ、機嫌を損ねた様子も見せない氷河に、秘書はかえって恐慌をきたしているらしい。 その無様な様子を眺めて、氷河は、そろそろこの男も切った方がいいかと考え始めていた。 が、そんな秘書の慌てぶりなど一般社員にはどうでもいいことのようだった。 滅多に姿を拝むことのできない自社の社長の姿を間近に見て、ロビーで残業前の休憩をとっていた女子社員たちが色めきたつ。 彼女たちは、まるで春の早朝のスズメの群れのように、母国語で騒ぎ始めた。 「ウチの社長って、どうして芸能界に入らなかったのかしらね」 「そりゃあ、日本経済界の損失ってものでしょ」 「今度、米国のIT企業を吸収合併するんだって。表向きは提携ってことになってるらしいけど」 「提携話が出た途端に、そこの会社、株価が急騰し始めたわよね。社長の判断はコンピュータより正確って言われてるし、これは買いかしら」 「コンピュータ以上かぁ……。確かに、こんなに近くにいても、雲の上の人って感じ」 「釣り合う女なんていないわよねぇ」 「女には興味ないらしいって、もっぱらの噂」 「でも、堅物なわけじゃないんでしょ。セクシーだし」 「何でも、噂によると、熱愛していた恋人を事故だか病気だかで亡くしちゃったんだとか」 「それで、あんなに色っぽいのー」 「きゃー、ロマンチックー! 私が慰めてあげたーい」 「無理無理。よっぽどのひとじゃないと劣等感で押しつぶされちゃうわよ」 日本語もできるはずの女子社員たちは、おそらくわざと北京語を使っているようだったが、彼女等の会話は氷河には筒抜けだった。 本国ではエリートと呼ばれる人種のはずなのだが、女の噂好きには日本も中国もあったものではないらしい。 どこからそんな話が湧いてきたのか──彼女らの想像力が作り出す噂はともかく、この調子で社外秘を外部に洩らされてしまってはたまらない。 氷河は、服務規律の徹底を考え始めていた。 |