「60年前の人……?」

彼は、真冬の氷の海に沈み、深い海溝の底でずっと眠っていたのだそうだった。

「彼は、まあ、いわゆるコールドスリープ状態だったわけだな。船が沈没した日は、その年いちばん冷え込んだ日で、しかも彼は何を手にしていたのか、恐ろしいスピードで深海に沈んだものらしい。まさに瞬間冷凍、解凍しても新鮮だったわけだ」

「…………」
多くの人命が失われた悲惨な海難事故を、まるでマグロの刺身の保存方法でも語るように告げる紫龍に眉をひそめることすら、瞬にはできなかった。

北の海での60年間の冷凍睡眠からの目覚め――とは、まるでSFか浦島太郎の世界である。
瞬は、紫龍のその話を、最初は、彼得意の(真顔での)ジョークかと疑いすらした。

「人間の身体が凍ると、当然細胞内の水分も凍り、体積が膨張して細胞膜を破る。その問題を解決する方法を見付けない限り、人間の身体全体を冷凍睡眠で保存することなど不可能なはずなんだが、どういうわけか、彼にはその事態が起こらなかったらしい。が、DNAレベルまで検査したんだが、検査の結果、彼の肉体に常人と異なる点は全く見付からなかった。超低温以外に、何か特殊な環境条件が加わったことは間違いないんだが、これ以上調べても、彼自身からは何の発見も得られそうにないんでな」

グラード財団のゲノム研究所に勤める兄の同僚は、そう言って、瞬に肩をすくめてみせた。
つまり、紫龍は、検査の終わったモルモットの世話を瞬に押しつけようという魂胆らしい。
60年の時を海底で過ごしたモルモットは、一緒にソ連に渡ろうとしていた母親の死を知らされて、意気消沈しているということだった。

「まあ、本来は80近い老人だが、身体は船が沈没した20歳のまま、特に障害もない。日常生活は普通に営めるから、おまえに迷惑をかけることもないだろう。老人介護をしろと言っているわけじゃない。健康で若い外国人に、現代日本の一般的生活を教えてやってくれと言っているんだ」
「そんな簡単に言わないでよ」

瞬と瞬の兄は、幼い頃、この紫龍と同じ養護施設で数年を過ごしたことがある。
紫龍は、瞬にとって、いわば兄弟か学友のようなものだった。
紫龍の方も同じように思っているのだろう。

その気安さで、彼はしばしば瞬の住むマンションを訪ねてきては、食事やお茶を所望する。
それを、瞬は、グラード財団の仕事で留守がちな兄――瞬は、兄が財団のどんな仕事をしているのかも知らされていなかったが――の代わりに、瞬の様子を見にきてくれているのだろうと、勝手に推察していた。

瞬は、そんな彼に感謝もしていたのだが、時々、彼は、瞬の許に無理難題を持ち込んでくるのだ。

「これもボランティア活動の一環だ。おまえには、去年も、ホームステイで来日したアメリカ人を3ヶ月ほど預かってもらったじゃないか。一輝の部屋は当分空いたままだろうし、おまえも大学に入って、時間はたっぷりあるだろう?」

そのアメリカ人に女の子と間違われ、ゲイシャガール呼ばわりされたあげく、男とわかってからも迫られ続けたことを、瞬はいまだに忘れていなかった。
兄の勤めるグラード財団が招聘した有能な技術者と言われたからこそ、瞬は必死にその侮辱に耐え抜いたのである。


「それとこれとは全然話が違うじゃない! 80歳の……しかも、ロシア人…… !? 」

「78歳だ。しかし、見た目は20歳の青年だぞ。まあ、少々時代錯誤なところはあるようだが、来栖大尉なんぞ目じゃないくらい綺麗な男だし。しかも、DNA検査までしたおかげでわかったんだが、彼には、ロマノフ朝の王族の血が入っている。英国やスウェーデン王室のDNAパターンも認められた。世が世なら、俺たち下賎の者は側に近寄ることもできない公爵様で──」

「くるすたいい?」

瞬が、自分の期待していた部分でないところに反応を示すのを見て、紫龍は深い溜め息をついた。
「最近の若い者は、来栖大尉も知らんのか? 旧日本軍戦闘機部隊の超有名なエンジニア・パイロットだ。父親が開戦直前に特命全権大使として最後の日米交渉に臨んだ人物で、母親がアメリカ人。宴会があると、芸者がみんな彼の側にいってしまうんで戦友たちが嘆きまくったというくらいの美形だったそうだぞ」

まだ20代前半で、瞬と同様に戦争を知らない子供たち世代の紫龍に、『若い者』呼ばわりされるのは心外である。
一言物申してやろうとした瞬を、だが、紫龍の嘆息が遮った。

「もっとも、25歳の若さで戦死しているがな」

「…………」
紫龍のその呟きで、瞬は反駁の言葉を飲み込んだ。
そして、瞬は、自分がその78歳の青年を預かることを躊躇している本当の理由に、初めて気付いた。

不幸な事故に遭ったその青年を預かって、戦争というものを身近に生々しく感じることになるのが、瞬は嫌だったのである。

日本のみならず世界中が狂っていたあの時代の人間なら、その青年は、戦争礼讃めいた思想の持ち主かもしれない。
まして、当時は敵国人だったのである。

そんな人間とうまくやっていける自信が、瞬にはなかったのだ。





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