「ロシア語なんて、僕、ボルシチとウォッカくらいしか知らないのに……」
瞬は、仕方なく、搦め手から紫龍への抵抗を試みた。

紫龍が、得意の弁舌で、それを却下する。
「日本語は堪能だ。日本で生まれ育ったんだからな。家族と共にロシア革命で日本に亡命してきた母親が、日本で知り合った男との間に産んだ子供らしい。大戦の頃には、彼の父親も、母親と一緒に亡命してきた両親も――これが、冷凍マグロの彼の祖父母に当たるわけだが――亡くなって、母ひとり子ひとりになっていたらしいがな。彼は日本で成人したんだ。だが、大戦が始まって――なにしろ、鬼畜米英と同じ見てくれだろう。来栖大尉は混血とはいえ黒い髪と黒い瞳だったし、父親が実力者だったから、旧日本軍への入隊も認められて、差別を受けることもなかったようだが、彼はそういう恵まれた環境にはなかった。で、ソ連の対日参戦の噂が広まり始めた頃に、いよいよ日本にはいられなくなって、母親の祖国に戻ろうとした途中の事故だったらしい」
「…………」

「ロシアに──ソ連に帰っても、シベリア送りか前線に飛ばされるだけの未来しか待っていなかったろうがな。だが、金髪碧眼の外見が災いして、日本にもいられなかったわけだ。船が沈没したことも、考えようによっては、幸運なことだったかもしれない。革命で亡命したロシア貴族の末裔としては、いちばん辛い時期を海の底で暮らせたということになる」

「そんな言い方って! それがどんなに悲惨な時代だったとしても、本来自分が生きていた時代に取り残されるのは、すごく辛いことでしょ! その上、お母さんが亡くなって、今、この世界にその人のこと知ってる人は一人もいないのかもしれないんでしょ! その人、きっと心細い思いでいるに違いないのに……」

紫龍は、瞬の弱点をうまく突いてくる。

「おまけに、彼は、現代のマスコミのものすごさを理解していないからな。へたな場所に置けないんだ。それでなくてもショックを受けているに違いないのに、マスコミなんかに彼の存在を嗅ぎつけられたら、どんなことになるか想像に難くない。しかも、彼は今、母親の死を知らされたばかりで、かなり混乱している。平穏に暮らせるようにしてやるのが、我々現代日本人の務めだと思うが」

「…………」

言い返したいことはいくらでもあった。
だが、60年前の異国の青年が、今どれほど心細い思いでいるのかを考えると、結局瞬は、紫龍の申し出を拒み通すことはできなかったのである。





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