「様子を見て来いと言われて来たんだが――」

その夜、奴隷が暮らしているにしては豪奢に過ぎるヒョウガの部屋を訪れたのは、狡猾と盗みの神であるヘルメスでした。
かぶると姿が見えなくなる翼のついた冑を脱いで、その姿を現した彼は、ヒョウガとは同じ父を持つ、いわば異母兄ということになります。

「とっとと盗んでしまえばいいものを。幸い、あの世間知らずな王子様は、おまえのことを信じきっているようだし、騙くらかして、貴様の国にさらっていけばいいだけのことじゃないか」
盗人の神は、らしくもなく恋に悩んでいる異母弟に、嘲るような顔を向けました。
恋をしていない者の目には、他人の恋は、いつでも滑稽に映るものです。

「俺を、周りの迷惑も顧みずに、気に入った相手を奪ってまわるどこぞの神と一緒にするな!」
「神を脅迫するような奴がよく言う。さっさとものにしてしまえばいいんだよ。あれはいい声で鳴くぞ」
ヒョウガに怒鳴りつけられたヘルメスは、大仰に肩をすくめてみせました。

「シュンにそんなことができるか……!」
「綺麗なだけのただの子供だろう。まあ、オリュンポスの神々にはひどく気に入られている子だから、多少のリスクは覚悟した方がいいと思うが、おまえなら神々を言いくるめることくらい朝飯前だろう」
「やかましい! シュンは俺にとっては、神以上の存在なんだ!」

“綺麗”なのが姿だけだったなら、ヒョウガとて、こんなに悩んだりはしませんでした。
シュンが、もし、ヘルメスの言うように、綺麗なだけのただの子供だったなら、確かにヒョウガは、とうの昔にヘルメスの言う通りのことをしてしまっていたことでしょう。
そうできる機会は、これまでに幾らでもあったのですから。

「神以上とは、大きく出たもんだが――それなら遠くから崇め奉っていればよかっただろう。だが、おまえはそうしなかった。結局、おまえは、俺たちの親父と同じで、目にとまった綺麗な花を自分のものにしたいだけなんだよ」

「違う」
「違わないさ」
「違う。さっさと帰れ! そして、ゼウスにでも誰にでも報告すればいいだろう。愚図なヒュペルボレオイの王が、好きな相手ひとり自由にできずに、うじうじと悩んでいるとな。ゼウスは、俺の醜態をさぞかし喜ぶだろうさ!」

そう怒鳴ってから、ヒョウガは、手近にあった陶器の杯をへルメスに投げつけました。
盗人の足を持った敏捷な神は、もちろん、それを造作もなくよけてしまいましたが。






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