「神々の長である私を脅迫してみせた、あの男はどうしている」

ヒョウガが故国に帰って数日が過ぎた、ある日のオリュンポス。
娘のしたことを不問に付した神々の父は、久し振りにオリュンポスにやってきた女神アテナに尋ねました。

「すっかり消沈して、北の国で大人しくしていますよ。これ以上神々の意思に逆らったりしたら、自分の国と国の民がどうなるかくらいは承知しているようですね」

アテナの返答を聞いたゼウスが、自身の豊かな顎ひげを撫でつけながら、頷き返す。
「あれにはいい薬だ。我等神々を馬鹿にしおって」

それでも血のつながった息子ではあるので、彼は、本心から彼の死を願っていたのではないようでした。
もちろん、アテナは、そのことを指摘して、父神の臍を曲げさせるような愚を犯すことはしませんでしたが。

「宇宙をただ一人の人に凝縮し、そのただ一人の人を神にまで拡大するのが、恋というものだそうです。ヒョウガには、シュン以外の神々も人間もどうでもよかったのでしょう。エロスやアフロディーテの親子などは、このたびのことで、自分の領域の強大な力が証明されたと、満悦しているようですよ。決して、神々の尊厳が貶められたわけではありません。もちろん、ヒョウガが大人しくなったからと言って、神の尊厳が回復されたわけでもありませんけれどね。それに──」

その事実を告げていいのかどうかを、アテナは一瞬間だけためらいました。

「それに?」

けれど、ゼウスに尋ね返されて、彼女は再び口を開きました。
それは、いずれはゼウスの知るところとなることでしたから。

「シュンが、北の国に旅立つ準備を始めています」
「なんだと !? 」

神々の父が驚き、瞳をみはる様を見て――その瞳に、少しだけ喜びの色が混じっているのに気付いて――アテナは穏やかに微笑しました。

「あの子はヒョウガなどよりはるかに賢明です。自分の思いを伝えるのに、神々に頼ろうなどとは考えない。真実の力が何で、その力をどう使うべきなのかを、シュンはちゃんと知っているんです」

ヒョウガは、自分の恋を手に入れるために、『策士、策に溺れる』を地でいったようなものでした。
神々を軽んじ操ることで、そんなことのできる自分自身の力というものに、得意になっている部分がヒョウガの中にあったことも否めないでしょう。

けれど、同じ目的を果たすために、シュンが選んだ道は、ヒョウガとはまるで違っていたのです。

「たまたま王に生まれついた。たまたま神として存在することになった。たまたま降って湧いたような幸運に出合った。そんなことに、人は動かされない。人は、幸運な人々を妬みこそすれ、そのことに尊敬や感動は覚えません。誠意をもって努力する人の姿に、人は初めて胸を打たれるんです」

「――ヒョウガにされたように、我々の力を利用されるのは御免だが、シュンが望むのなら、私はいくらでも神としての力を貸してやるのに……」
娘の言葉に、ゼウスは呻くように呟きました。

「それが、あの小狡いヒョウガの幸福に繋がることでも?」

問われたゼウスが、一瞬言葉を詰まらせます。
しばしの間をおいてから、彼は苦渋を含んだ口音で、娘に答えました。
「――致し方あるまい」

父の出した結論を聞いたアテナが、再び嬉しそうに微笑します。
「憎悪より愛の力の方が強いということがわかって、私はとても嬉しいです。シュンの旅は――我々は、陰ながら見守ってやることにいたしましょう」
「北の国まで運んでやればいいではないか。そなたの力をもってすれば、一瞬のこと。路傍の石を拾いあげるよりたやすい仕事だ」

神々の父たる存在が、まだシュンの決意の意味と価値を理解しかねているのかと言いたげに左右に首を振り、知恵と戦いの女神はゼウスの提案を一蹴しました。

「シュンは、自分の言葉で兄を説得し、自分の足でヒョウガの許に行こうとしているんです。そうするからこそ、おそらく、ヒョウガを感動させることができるんですよ。そして、シュンの好意は、ヒョウガに自分の過ちを気付かせることもできるでしょう。最初に、ヒョウガこそがそうすればよかったんです。神の力を利用しようなどと考えずに」

娘の言葉を聞いたゼウスは、やっと得心できたようでした。
「ふん。シュンに再会した時のヒョウガの顔が見ものだな」

神の持つ超人的な力ではなく、狡猾に策を弄するのでもなく、自分の持っている力の内で努力してこそ、その努力は、人の心を動かすものなのでしょう。

「神々は、人間界に関与すべきではないのかもしれないな。神など、人にはいなくてもいいものなのかもしれない」

ゼウスが本気でそんなことを考えているのではないことがわかっていながら、アテナは父神に頷いてみせました。
「むしろ、人間に試練を与えることこそが神の務めなのかもしれませんね」

「試練を与えるだけで、恩恵を与えない神か? そんな神がいていいものか」
ゼウスは、娘の言葉を呆れたような顔をして聞き、そして、それきり彼は、その冗談を忘れてしまいました。

ユダヤの地で、そういう神が生まれるのは、もっとずっと後の世のことになります。
よもや、そういう神に、自分たちが駆逐されることになるなどとは、その時のゼウスは考えてもいませんでした。






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