その夜、僕は、氷河の部屋にノックもせずに入り込んだ。

「瞬……?」
氷河がベッドで上体を起こしたのがわかった。

「ひとりでは眠れないの」

氷河はきっと、僕の言葉の意味を理解してくれるはず。
綺麗事は言うのも無駄。
僕は、氷河を僕の側に引き止めておくために、そう言った。
そして、氷河の反応なんか気にしてもいない振りをして、氷河のベッドに近付いた。

「瞬……」

氷河の声に、どんな感情が含まれているのかが、うまく読み取れない。
わかるのは、少し戸惑いが混じっていることくらい。

自分の目が見えないことを、これほど焦れったく思ったことはない。
氷河の表情を、あの瞳を、確かめられないことが、僕はもどかしくてならなかった。

氷河は、僕の何に惹かれて、僕をあんな目で見るようになったんだろう?
この女みたいな顔?
目が見えたなら、鏡と睨めっこをして、どうすれば可愛らしい表情を作れるのか試してみることもできるのに。

僕の身に着けているものは、氷河を誘惑するのに適しているのか、僕の目は、髪は、指は、唇は、どんなふうに氷河の目に映っているのか、それすらも今の僕にはわからない。
自分ではもう思い出すこともできない自分自身の姿が、僕には、頼りなく感じられてならなかった。

僕は、そろそろと手を伸ばし、その手はやがて氷河の腕に触れた。
目的のものの存在を確認し、僕は少し安堵した。
安堵した途端、身体が熱くなって、少し震え始めた。
でも、何をされたっていい。
氷河を失わずに済むのなら。

『どうか、氷河が、僕の誘惑に屈してくれますように』
そう祈りながら、僕は、氷河の腕に触れた自分の手と指を、氷河の肩に運び、首筋をなぞり、頬に触れて――そして、僕の指は氷河の唇に辿り着いた。

「瞬……」

心配は無用だった。
僕の名を呼ぶ氷河の声は、熱を帯びて掠れていた。

多分、氷河は、それまで、僕を庇いきれなかった罪悪感で忘れていたんだろう。
氷河が僕を欲しがっていたこと。

「氷河――」

思い出したら、氷河は、きっと僕の誘惑に屈してくれる。
そう確信して、僕は、氷河の腕に抱きしめられる時を待った。

氷河の手が僕の手を掴み、その指先に、氷河の唇が押し当てられる。
その瞬間に、僕が感じた狂気にも似た戦慄を、どう言い表したらいいんだろう。
勝利の予感と歓喜。
それは、本当に背筋がぞくぞくするほどの興奮を、僕の心臓に運んできた。

「瞬……!」
乱暴にシーツの上に引き倒されて、のしかかられて、僕の脚の間に氷河の脚が割り込んでくる。
氷河の唇が僕の唇をふさいで、氷河の手は――それは、僕のシャツのボタンを半ば引きちぎるように外そうとしていた。
薄い布越しに、氷河の手の熱さが伝わってくる。

恐いよ。
本当は。
今だって、僕は、あの氷河の青い瞳が恐い。
僕はずっと、こうされることを怖れていたんだから。

でも、これは儀式で――そして、契約だ。
唯一の神を信じると誓うイスラエルの民に、ヤハウェの神がカナンの地を約束したように、僕を氷河にあげてしまえば、氷河は僕の側にいてくれるようになるんだ。

熱に浮かされたように幾度も僕の名を呼び、骨の髄まで僕を貪ろうとする氷河に、僕は、怖れを凌駕するほどの満足と安堵を覚えていた。
そして、僕は、そうすることの交換条件を、喘ぐように口にした。

「氷河、ずっと僕の側にいて」

僕がそう言った途端に――氷河の熱が冷めた。

なぜなのかはわからない。
氷河はふいに僕から離れ、半裸の僕をその場に残して、彼の部屋から、そして、僕たちの家から出ていった。






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