「ぼ……僕、アルテミスさんに頼んでくる。氷河を元に戻してくださいって」

相変わらず、氷河トンボは部屋の上空をすーいすーいと飛び回っている。
椅子に沈めた身体を縮こまらせ、氷河の姿をなるべく視界に映さないようにして、瞬は仲間たちにそう言った。

そんな瞬に、星矢が首を横に振る。
「いや、それがさー。あの女神サマ、俺たちがびっくりしてる間に、どっかに消えちまってさ。沙織さんも、あの女神サマの居場所は知らないんだと」
「そんな……」
「一応、今、沙織さんが彼女の行方を捜してくれてはいるんだが……」

普通の人間の捜索ならともかく、相手は神出鬼没の神サマである。
紫龍の口調は、沙織の捜索にはあまり期待が持てないという予測を匂わせたものだった。
瞬が、力なく、両肩を落とす。

「どっちにしても、あれは、欲求不満からくるヒステリーだろ。居場所がわかっても、あの女神サマが、すんなりと氷河を元に戻してくれるとは思えないよな」

自然にしていて、その結果、一生を処女として通すのと、処女でいることを決意して、その不自然な決意に固執するのとでは、心身にもたらされる鬱屈度も異なるだろう。
捜し出した彼女に詫びを入れるくらいのことで、月の女神がすんなりと瞬の望みを叶えてくれるとは、星矢にも思い難かった。


「トンボの寿命って、どれくらいなの……」
あまり期待できない女神サマの動向より、今は氷河の当座のことを考えるのが先である。
瞬は、沈鬱な表情で、星矢にとも紫龍にともなく尋ねた。

紫龍が、答えにくいその質問に、やはり暗い表情で答える。
「普通は、成虫になって一ヶ月くらいだな。夏から秋にかけて五ヶ月くらい生きるアキアカネもいるが、氷河はどうやら普通のキトンボのようだし」

「氷河は……どうなるの。普通のトンボと同じなの」
「なにぶん、前例がないので何とも言えないが……」
「前例も何も、トンボにされた人間なんて、数百万年の人類の歴史上、初めてなんじゃないか?」
「クモにされた少女なら知ってるぞ。アテナに」

「…………」
神サマとは、要するにそういうものなのだ。
非が、氷河に――あるいはアテナに蜘蛛にされてしまった少女に――あったのだとしても、瞬は、アルテミスと大同小異なことをしてのけたアテナに――沙織ではなく――、それを確認する気にはなれなかった。

ますます暗い表情になった瞬の側に、氷河トンボがすーっと近寄ってくる。
「やだっ!」
瞬は、かろうじて、その恐ろしい生き物を払いのけようとする自分の手を抑えることができた。
氷河トンボが即座に、部屋の隅に飛んでいく。

おそらくは、瞬を慰めたかったのであろう氷河トンボのその哀れな様子に、星矢は同情の目を向けた。
「氷河でも駄目かよ?」

「だ……だって、だって……!」
星矢に尋ねられた瞬が、苦しそうに眉根を寄せる。

仲間に羽をもぎ取られ、頭や尾を齧り取られて、飛ぶことができずに地面でのたうつトンボたちの姿――。
あの場面の鮮明な記憶が、どうしても瞬に、それを『可愛い』と思わせてくれないのだ。
人間も――自分も――物理的に同胞を貪り食うことをしないだけで、似たようなことをして生き延びている生き物だということは、瞬とてわかっていたのだけれども――。

「悪いのは俺たちだろう。トンボが悪いんじゃない。俺たちが捕まえて虫籠などに閉じ込めなかったら、あのトンボたちだって、あんなことはしなかった」
「それで嫌われてたら、トンボがかわいそうだよな〜」

氷河トンボがもし口をきけたなら、瞬を責めるなと星矢たちに突っかかってきたところだったろうが、今の彼には、瞬をいじめる仲間たちを責めることもできなかった。

「そんなこと、わかってるよ! わかってるけど、僕、どうしても……」
それ以上耐え切れなくなったのか、ついに瞬の瞳から涙が一粒零れ落ちる。
自分が彼等を恐れるのは、彼等にそんな過酷を強いた自分自身を恐れているからなのだということは、瞬自身、理解していたのである。
それはわかっていた。
わかってはいるのだ。

「あー、泣くな泣くな」
星矢が、泣き虫の仲間の頭を撫でて、いい子いい子をする。

「まあ、あれを見てしまったら、苦手になっても仕方がないだろう」
紫龍はそう言って、瞬の肩を軽くポンポンと叩いた。

部屋の上空を旋回している氷河トンボは、おそらく、気安く瞬に触れるなと、仲間たちを怒鳴りつけたい気分でいたことだろう。
どんなに憤っていても、あるいは、絶望に支配されていても、ノンキにくうを飛んでいるようにしか見えないその姿が、いっそ哀れではあった。






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