ヒョウガの唯一の安らぎの時。
それをぶち壊したのは、バーデンの宮廷からやってきた一人の少女だった。

ヒョウガの母がヒョウガの妻にと考えていた、バーデンでは最も有力な貴族の令嬢。
彼女は、ヒョウガと正式に婚約したわけではなかったが、バーデン大公国が消え失せようとしている今この時期に、時代の流れが読めず、いまだに大公妃になることを夢見ている幸せな少女でもあった。

このところとみに頻繁になったヒョウガの外出を訝って、スイスの国境近いこの場所まで、彼女はヒョウガの後をつけてきたものらしかった。

「最近、宮廷にお顔を出さないと思ったら、こんなところに、こんな……。この少年は何者ですか」
未来の大公妃と嘱望されて我儘いっぱいに育てられた少女は、案内も請わずにシュンの館に入り込んでくると、見下すような眼差しでシュンを見やった。
ヒョウガに囲われている妖艶な美女が出てくるに違いないと思っていたのか、少々気抜けしたような表情で。
しかし、シュンの清楚な風情は、彼女を完全に安心させてもくれなかったらしく、その口振りは、いつにも増して高慢だった。

突然、挨拶もなく現れた闖入者に、シュンはきょとんとしていた。
「あの……どなたですか?」

「私、大公様の未来の妻ですの」
「ヒョウガの……?」

挑戦的な彼女の自己紹介の意味をシュンが理解してしまう前に、ヒョウガは、自称未来の大公妃の追い返しにかかった。
我儘な大貴族の令嬢は、何やらヒステリックにわめいていたが、ヒョウガは聞く耳を持たなかった。
彼女を馬車に押し込み、すぐに都に帰るよう御者に命じると、急いでシュンの許に戻る。
ヒョウガは一刻も早く、『あの娘を妻に迎える気などない』と、シュンに言わなければならないような気がしていた。

だが、シュンは、息せき切って戻ってきたヒョウガに、にっこりと笑って言ったのである。
「なんだか元気で可愛らしいひとですね」
――と。

「なに?」
その一言に、ヒョウガはカッとなった。
シュンが、あの大貴族の令嬢の戯言の意味を理解してそう言ったのかどうかを考える余裕は、ヒョウガにはなかった。

シュンはなぜ彼女に嫉妬してくれないのだろう――と、ヒョウガは思ったのである。
そして、その時、ヒョウガは、自分がシュンに何を求めていたのかを、初めて明確に自覚した。

ヒョウガがシュンに求めていたこと。
それは、保護者としてシュンに慕われることではなく、シュンに恋されることだった――のだ。


今までの自分――王としての自分――を否定されて、ヒョウガは絶望しかけていた。
絶望に瀕している人間には、希望が必要である。

その“希望”を、自分が見付けかけていたことに、ヒョウガは今になってやっと気付いた。
王である自分を知らない人間――王でない自分を、王としての権力を持っていないヒョウガという個人を求めてくれる人間――。
ヒョウガは、いつからか、シュンに、力を持つ保護者としてではない自分を求めてほしいと願うようになっていたのだ。

シュンは美しく、それ故、ヒョウガのその願いは、自然に恋になる。
だが、シュンは、ヒョウガをそういうものとして見ていなかった――らしい。






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