自分が暮らしている山が、“神の住む山”と言われていることを、瞬は知っていた。 そこに住む“神”は、知らぬことはなく、いつまでも若く美しく、人間が不敬を犯せば容赦のない罰を与えるが、従順にしていれば思いがけない恵みを与えてくれる──下界の人間たちはそう信じ、畏怖の念をもって、この山を見上げながら、日々の暮らしを営んでいる。 標高2000メートル弱の、さして高い山ではないのだが、人が登れるような道のない岩山で、斜面も急角度なため、空からでないと、まず山頂には辿り着けない。 何よりも、神の怒りを怖れて、人間がこの山に足を踏み入れることはなかった。 山の下に暮らす人間たちに、農耕を教え、牧畜を教え、文字や法律の概念や星の運行の見方を教えたのが、自分の何代前の父祖なのかを、瞬は知らない。 建築術、医術、地理学、自然科学──。数年前に亡くなった瞬の父と母の代にはまだ、“神たち”は、彼等の持てる知識を完璧に人間たちに伝えきれていなかった。 瞬の住む山は、その時代時代で呼び名が変わったが、今はエリシオンと呼ばれている。 その頂に建つ宮殿──実際には、それは宮殿というよりは白い高塔だったのだが──は無憂宮、そこに住む神の名はプルトン──富める者──と呼ばれているようだった。 下界では、人間たちが国という集団を作り、自国の勢力を伸ばすための争いを続けていたが、この山だけはいつも、それらの争いの外にあり、静寂に包まれていた。 この山がエリシオンと呼ばれるのも、この山に住む者がプルトンと呼ばれるのも、誰も見たことのないはずの神の住まいが無憂宮と名付けられているのも、人間たちの皮肉なのかもしれないと、瞬は思っていた。 争いも憂いもない平和な聖域。 そこに住む神は、強大な力を有しているはずなのに、決して人間たちの争い事には関与しない。 人間たちは、この山に住む神を、羨んでいるのかもしれないし、恨んでいるのかもしれなかった。 |