かつては、エリシオンの神たちが日々の憩いを憩っていたのであろう庭。
今は、瞬以外には誰も歩むことのない庭。
飾られていた彫刻は崩れ落ち、幾重もの虹を描き出すように設計されていた噴水も水を吐き出すことをやめて久しい。

その庭に、ある日、瞬は、自分以外の動くものを見付けた。

「人間? まさか……」

エリシオンと交流があるのは、今はオリンポスだけである。
彼等がエリシオンを滅してしまおうとしないのは、表向きの理由はどうあれ、事実は、瞬の許に、オリンポスにはない知識と技術、それを記した文献があるからだった。
復活しかけたこの星を再び闇の時代に葬り去ることもできる、核融合技術とその施設。エリシオンの者だけが口伝で伝えられる暗号文で記された、その文献。

彼等は時々、瞬をオリンポスに招聘しょうへいしようとして、この山を訪ねてくることがあった。
エリシオンから200キロほど離れた南方にあるオリンポスから、彼等は、大抵は小型のジェットヘリの噴射音を響かせて、この塔の庭に降りてくる。
飛行する技術を持つ“神”でなければ、この山の頂に辿り着くことは ほぼ不可能──のはずだった。

だが、今、瞬の住む塔の庭の朽ちかけた彫刻の台座に疲れきった様子でもたれかかっている 者は、どう見てもオリンポスの神ではない。

道もなく、獣ですら登ることの困難なこの山を、彼は、自分の足で登ってきたというのだろうか。
瞬は驚き、慌てて塔を下り、庭に飛び出した。
それから、人間の好戦的な性癖を思い出して歩調を遅くし、恐る恐る、神の住む山に登るという所業をしでかした人間の側に歩み寄る。

それは、20代半ばほどに見える、紛れもない“人間”の男性だった。
埃にまみれてはいたが、特に怪我らしい怪我もしていない。
ただ、ひどく疲労しているようではあった。

身に着けているものは、絹や化学繊維の長衣ではなく、麻か、もしくは動物の皮をなめして作った、到底繊細とは言い難いものだった。
山の頂を、神よりも自由に駆けめぐることのできる風が、この山で初めて見る人間の姿に興味を惹かれたように、その金髪に戯れている。

「プルトンは──エリシオンの神はどこだ?」
自分の足許に立っている者の影に気付いた彼は、それがエリシオンの“神”だとは思わなかったのだろう。
彼の目に、瞬は、非力な子供にしか映らなかったに違いない。

「すまないが、水をくれないか」
彼が手にしている長剣に──武器としての剣ではなく、その剣から立ちのぼる血の気配のようなものに──びくびくしながら、瞬は彼を塔の中に招き入れ、彼の望むものを与えた。

疲労困憊しているようだったその人間は、しかし、瞬に与えられたグラスの水で喉の渇きを癒しただけで、すぐに心身の力を取り戻してしまったらしい。
招かれた部屋の、おそらくは生まれて初めて目にする合成樹脂や超合金、グラスファイバーの家具や機械にひと渡り視線を巡らせた彼は、それらのものへの驚嘆の声もあげずに、性急に要件に入った。

「プルトンに会わせてくれ」
勧められた椅子に腰をおろすこともなく、彼は瞬に言った。

「あなた方がエリシオンの神と呼んでいる者のことでしたら、それは僕です」
瞬の返事を聞いて初めて、彼は瞬の姿をまともに見、驚きの感情を、初めてその表情と声とに表した。

「子供じゃないか」
「そのようです」
瞬は、目では笑わず、口許だけに形ばかりの笑みを刻んだ。
彼は、彼自身よりかなり下の方にある瞬の顔をまじまじと見詰めていたが、やがて自分に喝を入れるような深呼吸をひとつした。

相手は神なのだ。
どんな姿をしているのかは問題ではなく、大事なのは神が持つ力なのだと、彼は考え直したらしい。

そして彼は、彼がこの神の住む山に足を踏み入れるという危険を冒した理由を、瞬に語り始めた。






【next】