氷河の国にやってきて、半月ほどが過ぎた朝のことだった。
昨日までと同じように、服を身に着けようとして、瞬はふとその手を止めた。
「どうして、これがここにあるの?」

「ん……?」
氷河は、少々自堕落な格好で、まだ寝台にうつ伏せている。
寝台を出ようとする瞬を引き止め損ねて、彼は機嫌を斜めにしていた。

瞬を訝らせたのは、彼のために用意されていた着替えの衣服だった。
布は、シルク混紡の薄緑色のサテン。
それは、人間界にあるはずのないものである。

朝の光を受けている瞬の姿を眺めることで機嫌を直したのか、氷河は僅かに目を細めて、事も無げに答えた。
「言っていなかったか? エリシオンから運んできた」
「え? でも……」

いくら氷河の身体が強靭で、その体力が無尽蔵でも、ここからエリシオンに行き、その山頂に辿り着くまでは幾日もかかる。
だが、氷河は、瞬をこの城に連れてきてから一度も、瞬を一人で眠らせたことがなかった。
それは、“人間”には不可能なことのはずだった。

「あの、飛ぶ舟で何度か行き来した。勝手をして悪かったな。だが、ここにある服は、おまえのやわらかい肌を傷付けてしまいそうだったから。この寝台の敷き布もそうだぞ。こういう布は、どうすれば作れるんだ?」

「…………」
氷河に出会ってから、いったい瞬はこれまでに幾度、彼に驚かされてきただろう。
つまり、氷河は、たった一度瞬がヘリを操縦する様を見て、その扱い方を覚えてしまったということなのだろうか。

瞬は、氷河の観察眼と吸収力と応用力とに驚嘆した。
そして、それと同時に、氷河がそんな仕事をしていた事実にすら気付かずにいた自分自身にも、瞬は驚いたのである。

ここに来てからずっと、瞬は、氷河に求められることに狂喜していた。
誰かに求められるということが、これほど心地良く、これほど心身を満たしてくれるものだということを、瞬はこれまで知らなかった。

瞬は、エリシオンの最後の一人になってからずっと、あの聖域の番人だった。
瞬個人として存在したことがなかった。
そして、その立場がなかったら、人間はもちろん、オリンポスの者たちとて、瞬の存在など歯牙にもかけなかっただろう。
だが、氷河は、瞬の立場や“神”という肩書きを全く重視していない。
彼は、瞬のそれを、今ではむしろ、障害か欠陥だと思っているようだった。

毎夜貪り食われているような気分になり、瞬には超人的とも思える力を見せつけられ、圧倒されながら、彼との日々で、瞬が感じていたのは、氷河によって満たされていく感覚だった。

消えかけていた自分が、毎日少しずつ、心と身体の輪郭と存在感を取り戻している──。
氷河と共にいるということは、瞬にとって、そういうことだった。






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