ある夜、瞬は、自分と氷河だけの部屋に侵入者がいるのに気付いた。
氷河の心臓の上に、寂しさを食べて大きくなったような金色の猫が鎮座している。

瞬は、慌て取り乱して叫んだ。
「そこから、どいて! 僕の氷河に爪を立てないで!」

しかし、金色の猫は、氷河の心臓の上から動こうとはしなかった。
「これはただの人形だろう。死人のようなものだから、俺の爪でズタズタにされたって、痛みも感じない」
「でも、どいて! それは僕の氷河なんだから! 誰にも触らせない!」
氷河は、瞬の悲鳴がその世界に響き木霊こだましても動かなかった。
人形のように、死人のように、彼は動かなかった。

「氷河に傷をつけないで。いったいどこから入ってきたの」

「俺の名はヒョウガだから、おまえの夢の中にはどこにだって入り込めるさ」
金色の猫が、得意げに、そして、寂しげに、言い放つ。
「よく見てみろ。これはただの空想の人形。おまえの夢の中だけにいる氷河だ。こいつは生きていない。俺に何をされても、抗うこともできない。石のように、ただ眠っているだけだ」

それは、瞬もわかっているつもりだった。
この世界は、石のような孤独でできている。
しかし、その孤独は、宝石のように美しく、宝石のように傷付かない──はずだった。

だというのに。
金色の猫の下で、傷付かないはずの宝石が、少しずつ変化していた。
あれほど美しかった氷河の顔と肢体が、輝きを失い、生気を失い、くすみ色褪せていく。

「こんなところにいる限り、どうせ朽ちていくだけなんだ」
「嘘……。僕の氷河は変わらないよ」
「変わるさ。生きていないものは古くなっていくしかない。美しい絵も彫刻も、壮麗な建築物も、時が経てば朽ちていく。今よりも美しくなるのは、生きているものだけだ」

「あ……ああ……」
猫の言葉を真実だと思った途端に、瞬だけの氷河は、まるで蝋が溶けるように、その形を失い始めた。
死人のように、氷河の身体が徐々に崩れ落ち、醜悪なものに変わっていく。

「どうすれば……どうすればいいの。どうすれば、氷河が壊れるのを止められるの!」
「おまえは知っているはずだろう。こいつを蘇らせる方法を。こいつに必要なものが何なのか」

知っていた。
瞬は確かに知っていた。

瞬の氷河に必要なものが何なのか。
それは、いのち──だった。
自らが傷付き、他者をも傷付ける、命という名の真実の宝石。

「氷河っ!」
氷河が崩れ壊れていく様を見ていることに、瞬はそれ以上耐えられなかった。

瞬は、夢の世界を飛び出した。
気が狂ったような音をたてて乱暴に開けたドアの前に、なぜか氷河の姿がある。
突然飛び出してきた瞬の慌てふためいた様子を見て、彼は瞳を見開いた。

「氷河!」
瞬は、だが、委細構わず氷河に飛びつき、彼の唇に自分の唇を押し当てた。
それ・・が、今の瞬には必要だったから。
そうしないと、死んでしまうのは自分の心の方だということが、瞬にはわかっていたから。

「氷河、僕の氷河になって! 僕の氷河に命をちょうだい!」
「瞬……?」

何の説明も脈絡もない瞬の言葉と行動に驚き呆れていいはずの氷河は、まるですべてを知っていたように、静かに瞬に頷いた。
「そうするために、俺もここにきた」
氷河はそう囁いて、瞬を抱きとめ、抱きしめてくれた。
それから、互いの命を互いの中に流し込むような長いキスをする。

そんなふうにして氷河から氷河の命を貰った瞬が、ゆっくりとあの世界・・・・を振り返ると、いつのまにか、瞬の寝台の上から金色の猫の姿は消えていた。
そこにはもう、氷河の姿もなかった。






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